2 風景のような存在

 これはよくご紹介した話ですけれども、2001年ですからもう3年前ですか、2月の朝日新聞に、「電車の中で化粧をすることをどう思いますか」というテーマで、女性タレントだそうですが、遙洋子という方とそして芸能レポーターの鬼沢慶一という方が対談をなさっておりました。鬼沢さんという方は私と同じで、昭和一桁の方ですので、若い女性が満員電車の中で、周りとはまったく無関係といいますか、おおっぴらに化粧をしている。それがどうにもたまらない。いったい若い女の人の羞恥心というのはどうなったのだと、そういうことを鬼沢さんが遙さんに質問されておられるわけなんです。

 それに対して遙洋子さんは、「基本的には周りの方を人とは思っていません」と、まずこういっておられるのです。基本的には自分とは無関係な周りの人、そういう周りの人というのは、人とは思っていません。そして「好きな人の前では、化粧をしない。合う前に完成させておきたい」と。好きな人に会う時は事前に化粧をするが、その途中で出会う人は、自分の人生に何の関係もない、風景のような意識外のものなのですと、こういうことを遙さんはおっしゃっているのですね。

 そうしますと満員電車の中で、これだけたくさんの人が見ている前で、よう恥ずかしくもなく化粧してと、私どもの世代の者は思うわけですけれども、その若い人たちからすれば、林の中で化粧をしているようなものですね。周りの人は人ではないのですから、自然の中。そういう風景のような存在だということになりますと、林の中に入って心地よく風に吹かれながら、思う存分化粧している。そういう感覚のようでございますね。そして、お互いにその暗黙の了解のもとに、その電車なら電車の中で、個人個人の空間を作っているのだと。「それをジロジロ見る方こそマナー違反です」。こう言って鬼沢さんを叱っておられるのですね。見る方が悪い。なるほどそういうことになっているのかと改めて教えられました。

 しかし、遙さんもですね、今は元気で……おいくつかは存じませんけれども、お若いお顔が写っておりました。若くてお元気で、関係のない人は人とは思わない。風景のようなものだと言っておられますけれども、年を取り、病気になり、何か自分だけの力ではどうにもならなくなった時に、やっぱり同じことが言えるかどうかですね。

 周りの人、関係のない人は風景のようなものだとするならば、遙さんがどれだけ苦しんでのたうち回っていても、それはどういうことになるんでしょうね。林の葉っぱが風でそよいでいる騒ぎと同じだと、そういうことになるのでしょうか。何かそこでは元気な若い人たちにとっては、そう主張できるとしましても、ひとたび自分が自分の力というものを失っていく、そういう事態になった時に、そういう社会がどういう社会として受けとられていくかですね。まったくつながりというものが、そこでは開かれてこないわけでございましょう。

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Last modified : 2014/01/27 23:01 by 第12組・澤田見