「化仏を通して凡夫は阿弥陀の願に触れる」【南御堂2020年10月号より】

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『大経』では阿弥陀がいかに佛となったのかが説かれている。法蔵菩薩が世自在王佛のみもとで修行し、凡夫救済のための四十八願をたてる。願を成就するために五劫思惟しついに成仏されたと言われる。一々の本願には「若不生者」と凡夫救済の為の願が成就されなければ、成仏しないと誓っておられる。しかし一向に私が救われたと自覚できない、むしろいかに自分が佛から遠い位置にあるのか思いしらされるばかりである。

この問題について『論註』には「火㮇の喩(かてんのたとえ)」として説明されている。薪に火をつけるのに火付けが薪より先に燃え尽きる。まだ凡夫は救われていないが、如来の慈悲をもって先に成仏したとされる。

これは私凡夫にとってどういう意味があるのだろうか。そこに阿弥陀如来が菩薩より佛に至る過程が説かれているのが、重要な意味を持つ。その過程そのものが、虚妄分別(こもうふんべつ)に囚われもがき苦しみどうにもにもならない私凡夫が開放される、無分別の世界に誘(いざな)われる過程そのものだからだ。

私は決して佛の世界など見当もつかない。もし佛とはこんなものだと理解ができるのであれば、それは覚(さと)ったということであり、覚った者には阿弥陀は無用である。分別の檻に閉じ込められている凡夫に無分別の如来が分別の姿形をとって、私にも分かるように阿弥陀如来が法蔵菩薩となって願を建て、五劫という長時間をかけ凡夫の業苦を除く方法を思惟(しゆい)された。

五劫の法蔵菩薩の御苦労は他ならない私一人のためであった。如来は私の前に様々な姿形で表れる。その一番の中心は善き人であろう、表れた佛は化仏(けぶつ)であろう、しかしその背景に阿弥陀がある。化仏を通して凡夫は阿弥陀の願に触れる。もし触れることができれば、阿弥陀如来が真のご本尊となる。

法蔵菩薩が願を成就して阿弥陀如来になられるのだ。阿弥陀如来が真如の世界から法蔵菩薩となり、私という凡夫を通して再度阿弥陀如来となられる。ご信心が凡夫の上に開発された瞬間であろう。その時が来るまで如来は凡夫に働き続ける。凡夫よ、お前どうかこの願に気づいてくれと。凡夫にとって気づくまでの人生の道しるべとなって下さっているのだ。

教学儀式研究班研究員・髙島章(『南御堂』2020年10月号掲載記事を転載)

 

【補足】
「火㮇」は「火擿」とも書き、木製の火箸のこと。曇鸞大師が『浄土論註』で説かれる火㮇の喩を、親鸞聖人は『教行信証』「証巻」(『真宗聖典』293頁)に引用されている。