しゃらりん37/テーマ決定の経緯と願い

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インタビュー・テーマ決定の経緯と願い

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このたびの『しゃらりん』は、テーマについて、いろいろな人のさまざまな意見を聞き、このテーマが私たちに何を語りかけているのかを主題に構成しました。

私たちが、これからこのテーマを通して、どんな教化活動ができるのか、そんなことを考える第一歩になればと思います。

「慶讃法要テーマについての小委員会」では多くの委員の方によって協議されましたが、その中から代表して、澤田見主査、そして坊守さんから寺本智子委員、また門徒さんから谷殿茂明委員をお招きして、それぞれテーマの決まった経緯や、このテーマに対する思いや意見をインタビューさせていただきました。

(聞き手・廣瀬 俊)

澤田 見 (第12組・清澤寺住職)

しゃらりん● 今回決まりました慶讃法要テーマが、同時に教区基本テーマになるということですが、このメインテーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」サブテーマ「みんなに願いがかけられている」が決まった経緯を教えて下さい。

澤田主査● まずはこのご本山のテーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」についてある程度ディスカッションしたり、ご本山から出たパンフレットや本なんかを読みあわせながら勉強しました。そのご本山のテーマをメインにして、サブに大阪独自なものを付けるのか、あるいは本山のテーマをなしにして、大阪独自のものだけにするかと、まあいろいろ考えたんですけど、委員みんなで、自由に持ち寄って投票で決めようということになりました。それで何度か投票を繰り返して、一番票を集めたこのテーマになったわけです。
その原型は、みんなでテーマを持ち寄った時より前に、寺本さんが出された案なんです。その案の時は、「誕生、みんなに願いがかけられている」だったんですよ。

しゃらりん● メインテーマが「南無阿弥陀仏 人とうまれた意味をたずねていこう」ですが、このご本山のテーマをメインにするということについてはどうでしたか。

澤田主査● まあ提案のところで本山のテーマがメインだったので、委員全体としては自然とそのサブを決めるという風になりました。けど、提案されたテーマには本山テーマなしのものもあったし、大阪独自のテーマはやめて本山のテーマだけで行こうという意見もあったんです。一方で、本山のテーマはちょっと難しいのではないかという意見もあり、そういう意味で、前々回の「バラバラでいっしょ」はわかりやすくて、よかったね、という話にもなりました。そこでインパクトのある言葉で、しかも子どもでもわかるようなテーマがよいのではないかという話になり、「みんなに願いがかけられている」というわかりやすい言葉が選ばれたと思います。
本山のテーマは「人と生まれたことの意味をたずねていこう」ってこちら側が探さなくてはならないようだけど、そのことに応えるように、「みんなに願いがかけられている」ことに気づきなさいって言っているようで、何か自然と呼応するメインとサブになったようです。

しゃらりん● これからの広報活動はどんなふうに考えておられますか。

澤田主査● ポスターやリーフレットはもちろんですが、絵本を作ってはどうかというような意見もありました。具体的なことは話しあっていませんが、テーマを主題にした絵本です。また、ショートムービーを作成したらどうかという意見もありました。

寺本智子 (第25組・願正寺坊守)

しゃらりん● 最初に出されたテーマ案「誕生、みんなに願いがかけられている」は、どういう思いがあって出されたのでしょうか。

寺本委員● これはほんとにね、言うと申し訳ないんですけど、先に資料を沢山いただいたんですよ。ほんとに難しかったんです。読んだんですけど入ってこなくて、頭痛がしだして、これはアカンと思って住職に助けを求めたんです。そしたらいくつか出してきてくれたんです。けど沢山あったんで、家の子供たちに聞いたら「誕生、みんなに願いがかけられている」がいいっていうことで。で、「なんでこれがよいと思う」って聞くと「願いっていうとどうしても仏さまを思うけど、このテーマは仏さまのことはちょっと置いといたとしても、とてもわかりやすいんじゃないかなと思った。それと、みんなっていうところもいいんじゃないか」という答えが返ってきたので、出さしていただいたんです。
最初の「誕生」については、住職は前の親鸞さんの誕生800年のテーマ「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」を引き継いで、それをもっとわかりやすく表現したって言ってました。昨年テーマについて考えていた頃、ちょうど虐待の事件とかのニュースが結構あったんです。だから大切な「いのち」っていうか、親も子供が生まれた時に持っていたものが、どんどん大変な生活の中で見失ってゆくということもあったんだろうなって。もっと最初の感動とかに立ち返ってとかいうこともあった。誕生した意味っていうか、それと親鸞さんの誕生と掛けたんだと思います。

しゃらりん● この「みんなに願いがかけられている」が、これから慶讃法要や教区の活動を通してどんなふうに広がって行くかが楽しみですね。

寺本委員● 実は今日ね、門徒さんがお墓参りに来られて、このテーマを見せて聞いてみたんです。そうしたら、「願いをかけられている」は、そうじゃなくて「願いをかけている」だと思ってました」って言われました。私たちがお寺にお参りしたりするのは、お寺さんを通じて、またご先祖を通じて、自分の願いを叶えてもらうためにしているって思われてたみたいです。ああ反対だって思って、ですけど、このテーマがとても優しいので、門徒さんに話す時、話しやすいです。だから、このテーマのことを、いろんな人の感覚でもっと聞いてみたいと思いました。

谷殿茂明 (第17組・念通寺門徒)

しゃらりん● 「みんなに願いがかけられている」という寺本さんの案に、谷殿さんが複数の案として提案されたそうですね。

谷殿委員● みなさんもいろいろな案を出されて、サブテーマはないにしようという意見も確かにありました。そんな中でも「みんなに願いがかけられている」って言うのは、はじめに聞いた時からいいなあって思っていました。
それで「みんなに願いがかけられている」の「みんなに」を、「わたしに」「あなたに」「だれにもが」そして、語尾を変えて、「かけられています」と5種類を考えました。「わたし」「あなた」「みんな」はそれぞれに向きや広さが異なります。「みんなに」と「だれもが」も似ているがインパクトが違う。どの方向の、どの広さの、どの強さの言葉が現代の人には響くのかを私からの提案としたんです。

しゃらりん● 「みんなに」も「願いがかけられている」もとてもわかりやすい言葉ですが、やっぱり若い人へのアプローチもあるのでしょうか。

谷殿委員● 委員会に資料として出したんですが、「みんなに願いがかけられている」をよいと思ったのは、「願いがかけられている」という言葉は、生きていることに意味を見出せない人に、新しい視点・新しい希望を与えるのではないかと思ったからなんです。「生きることの意味」をいつも自分の周辺、自分の内側に探し続けていて、それが見つけられない人に、「自分に願いをかけている自分以外のもの」がいるんだという、まったく逆方向の視点をもってほしいと思ったからなんです。
自分に願いをかけるもの、それがもう亡くなった人であろうと、まだ出会わぬ誰か何かであろうと、隠れた自分自身であろうと、また阿弥陀仏であろうと……。
ただし、かける側の都合でかける「願いや期待」には拒否感があります。「かけられた願い」と言った時にそれを連想する人もいるでしょう。そうではなく、自分の生命が本当に息づき輝くことを願ってくれる誰かがいるということ、そういう願いがかけられてあることは、我々が生きることを支え、励まし、勇気づけると思ったんです。

しゃらりん● 今日はみなさまありがとうございました。

『しゃらりん』37号(2022/6/30発行)より