自分のいない岸をお浄土と言います

さて、三帰依文に戻ります。「この身今生において度せずんば」の「度」という言葉には、さんずいへんをつけてほしいのです。渡るということです。どこへ渡るかというと彼岸へ渡るということです。

「この身今生において度せずんば」とは、今、生きているうちに彼岸に渡らなかったならいつ渡るんだということです。ですから「さらにいずれの生においてかこの身を度せん」と続きます。

「彼岸へ渡る」のが実は仏教の目的です。皆さんは彼岸へ渡ったことありますか。彼岸といったら季節の名前だと思っていませんか。向こう岸という意味ですよ。それだけのことです。日本人はそれを季節の名前に使ってしまっているわけです。彼岸の中日とか、彼岸が明けたとか、彼岸の入りとかいうような言い方をしてしまうわけです。

彼岸というのは向こう側の岸。向こう側の岸とは自分のいない岸ということです。こちら側の岸とは自分がいる岸です。こちら側は此の岸と書いて此岸と読むのですね。この岸は自分のいる岸です。

自分のいる岸を地獄というのです。そして彼岸をお浄土といいます。自分のいない岸をお浄土というのです。だから、向こうへ渡りましょうというのが仏教の主張です。仏教は私たちをどうしたら向こう側へ渡せられるかということを、一生懸命考えてくれているわけです。もしそれが嫌なら渡らなければいいのです。

地獄を持って歩かない

ところで、私たちは地獄が大好きです。腹が立つような精神状態を地獄というのです。場所の名前と違うのですよ。ですから地獄は携帯できるのです。

今日私、ほら、電話持ってます。これ携帯電話っていいますね。どこへでも持っていけます。実は、皆さん電話だけじゃなくて携帯地獄も持っているのですよ。だからそれを持ったままで向こうへ渡ったらだめです。地獄を持ったままで向こうへ渡ったら、向こう側が地獄になるのです。それでは向こう岸へ渡っても何もならない。ちっとも変わらない。

それで、向こう岸でやっぱり腹が立つと思ってこっちに帰ってきたら、またこっちが地獄になるのです。自分が地獄を持って歩いているからいけないんです。地獄を持って歩かずに地獄を手放すのです。そうすれば、何も向こうへ渡らなくてもこちらがお浄土になるわけです。

地獄からの脱出

地獄に堕ちるというのはどういうことかというと、善人と悪人がいると思っている精神状態のことです。皆さんは善人と悪人がこの世にいると思っていますか。それとも、この世には善人も悪人もいないと思っていますか、どちらですか。

実は、善人とか悪人とかいうのは、それぞれの頭の中に住んでいるのです。外の世界には善人も悪人もいないのですね。これを仏教の言葉で言うと、「諸法無我」というのですよ。

諸法の諸はこれ「もの」と読むのです。全てのものは無我である。無我というのは客観的にこの世を見る状態を無我というのです。そして、主観的にこの世を見る状態を我というのです。我見といって、我の見解ですね。ですから善人とか悪人とかいうのは、我の見解、つまり私にとって都合のいい人を善人と言い、私にとって都合の悪い人を悪人と言います。そうすると都合がいいですからね。

都合というのは人によって違うのです。ですから私にとってあの人は善人やと思っても、隣のおばちゃんにとっては悪人に見えているかもしれません。善人とか悪人というのはどこにいるのかというと、一人一人の頭の中にいるのです。

外の世界には善人も悪人もいないわけですよ。これを教えてくれるのが仏教です。「諸法無我」というのはそういう意味です。良いも悪いもない、良いも悪いもなかったらどうしたらいいかというと、放って置いたらいいのです。

私たちは良い悪いがあると思っているから、悪いやつを懲らしめて、いい人を褒めるように考えるわけです。これを地獄に堕ちているというのです。悪いやつなんてこの世にはいないのですよ。あなたにとって都合の悪い人がいるだけの話です。そうすると悪いやつを懲らしめる必要が無くなるのです。その時、ようやく地獄から脱出できるのです。

つまり仏教を聞いたら地獄から脱出できる、地獄はアホみたいなものだということに気がつくのです。

良いも悪いもない世界

主観と客観の区別がつかないということは世の中をちゃんと見ていないということですね。ですから世の中を客観的に見ましょうよということです。無我という状態で見る。

そうするとこの世の中は空っぽです。無我というのと同じ意味が「空」という言葉、空と書いてこれを空っぽと読むのです。

空っぽですよ。この世の中が空っぽということは良い悪いが存在しないのです。そして空と同じ意味の言葉が「浄」という言葉なのです。これはゼロ。プラスでもないしマイナスでもない状態、浄水器というのは純粋の水をつくるわけです。混ざりものがあったらそれを取り除いて純粋の水にするのを浄水器というわけでしょう。

もともと私たちさえいなかったらこの世は良いも悪いもない世界なのです。私たちは自分の都合で良いか悪いかを決めてしまうわけです。良い悪いが見えてしまうわけです。これを、アホというのです。自分で良いか悪いかを決める。これが実は煩悩の原因です。

ですから、どうですか私たちは良いものを手に入れたい、悪いものを退けたい。いい人を褒めたい、悪いやつをやっつけたい。そんなことばかり考えるわけでしょう。それを使命だと思い込んでしまっているのです。

Pocket

Last modified : 2020/05/07 16:55 by 第12組・澤田見(組通信員)