観光客になって見る

偶然生まれてきた人に使命なんかあるはずがないです。放って置いたらいいです。放って置くことを「出家」というのです。

「でっけ」と呼んだらあきませんよ。家を出るということは、この世を外から見るということです。これはこの世を第三者の目で見るということです。そうすると、この世は良いも悪いもない。第三者の目が難しかったら観光客の目で見るということです。この世を観光客の見方で見る。

つまり第三者の立場、三人寄れば文殊の知恵と言う言葉もありますが、三人目が大事なのです。一人目と二人目は当事者、三人目が、これがちゃんとこの世を見ている人、つまり第三者ですね。第三者の目で見る。そうするとこの世は素晴らしいのです。

ゼロの世界は素晴らしいのです。私たちは良い悪いが見えるから、悪い時代やとか、悪い社会やとかアホなことばっかり言っているのです。良い悪いが見えるから言っているのです。

これは不幸なのです。本来ないものを見ています。幻を見ているわけです。だから幻を見ないようにすると楽になります。つまり観光客のものの見方で見るわけですね。

私はシルクロードに五回も行っています。だいたい一回に一週間ぐらい連れていってもらいます。観光客で行くシルクロードはよろしいですよ。五回も行っているのにまだ行きたい。だからテレビでシルクロードの話をされるとまた行きたくなるから、途中で消すのです。でも、もう行かせてもらえません。「もう五回も行っているでしょう」と、家内が行かせてくれないのです。

だけどあれ、一週間だけ行くから素晴らしいのです。向こうで住むかと言われたらまた別の話です。当事者になったら大変ですよ。だから、観光客というのは良いも悪いもない見方。つまり第三者の目で見る。損得で見てないから素晴らしいのですね。

阿弥陀さまからの提案

「生きるとは」というテーマをいただいたのですけども、長い長い時間的な視野と、広い広い空間的な視野をもって、この世を見る。これをやってる人のことを阿弥陀仏というのです。

「帰命無量寿如来」これどっかで聞いた名前でしょ。無量寿如来の無量寿というのは長い長い時間的な視野をもった人。長い目で見られる人ということです。これが観光客なのです。今にこだわらない生き方です。「今でしょ」という人がいますが、あの人はあまりいいものを見てないのですね。だから今頑張らないといけないというふうに言うわけです。「今でしょ」ではなく、過去・現在・未来という長い長い時間でこの世を見ていくと、この世は素晴らしいんです。

これが第三者の目で見るということです。なぜなら、過去とか未来には皆さんいないでしょう。今しかいないでしょう。だから、過去とか未来の人の目で見るということは想像するしかないわけです。だから、長い長い寿命を持った仏様が、どういうふうに見ておられるかということを想像するのです。この長い長い寿命を持った仏様のことを無量寿如来というのです。

そして、広い広い空間的な視野を持った仏様のことを「不可思議光如来」というのですね。これも聞いたことがあるでしょう。「正信偈」の冒頭ですね。

実は「帰命無量寿如来」と「南無不可思議光」を合わせると、「南無阿弥陀仏」になります。つまり阿弥陀さまは、自分の名前で私たちに第三者の目で見たらどうですか、と提案してくれているわけです。

放って置きましょう

それを聞いた私たちがそのとおり、第三者の目で見るとどうなるかというと、放って置くことになります。放って置くことが大事です。放って置くとどうなるかというと、「それでいいのだ」ということになるのです。この世を自分の思い通りに変化させようと思っていろいろやると「それでいいのだ」ということにはなりません。

思い通り変化させようとしても無駄です。皆さんやがては死なないとだめですしね。

「いろは歌」ってありますね。そこには「色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ」とあります。「常ならむ」とは無常ということです。

その次が「有為の奥山」。有為というのは自分にとって都合がよくなるように、いろいろするのを有為というのです。これを欲望ともいいます。欲望を満足させるために一所懸命がんばることが、有為という考え方ですね。

それにたいして仏教は無為です。「無為涅槃」。涅槃というのは死んだも同然ということです。無為涅槃というのは、放って置きなさいということです。放って置いたら一番いいのです。今日以後、放って置いたらどうですか。餓死するかもしれません。それも、結構と違いますか。いずれ死なないとだめですからね。

どうして生きたらいいかというのを仏教では、放って置きなさいと言っているのです。「無為涅槃」ニルヴァーナということです。これが仏教の目的です。放って置くと死んでしまうわけですが、早くに死んだも同然になったら、それでも良いのではないですか、ということです。

あなたはどうですか?

これで「生きるとは」の答えになったどうかは私にはわかりません。これは私の考え方、私の仏教の読み方です。

皆さんは私の名前ご存知ですか。私の名前は別に宣伝ではないですが頼信というのです。これは信頼の逆です。ですから私の話をあんまり信用しないで、自分で確かめようと思ってください。

何度も言いますが、私は私の考え方、私の仏教の読み方でさっきからしゃべっています。皆さんは皆さんで、仏教を自分の読み方で読んでもらうということが大事なのです。

だから同朋なのです。私が偉くて皆さんは偉くないという話とは違うのです。「私の言うことをちゃんと聞きなさい。私の言うことを信じなさい」という話ではありません。「私は仏教をこういうふうに聞きました。あなた方はどうですか」ということです。これを同朋というのです。この同朋会運動を推進するのが推進員の皆さんです。

そういうことで四分ほど超過しましたけども、これで終わらせていただきます。

どうもありがとうございました。

合掌

 

本書は、2015年12月10日に難波別院堺支院(堺南御坊)で開催された「第2回 第21組 推進員の集い」の沖野頼信先生のお話を加筆訂正したものです。
この「推進員の集い」を開催するにあたり、下記検討会の推進員と住職で何度も打ち合わせを行いました。
その結果、毎日の生活の原点を確認したいという推進員の方々の意向を受け、「生きるとは……」という講題で先生からお話をいただきました。
先生は、楽しく、そして真摯にご自身の了解をお話され、最後には「私は仏教をこういうふうに聞きました。あなた方はどうですか」と私たちへの問いかけでまとめられました。
そこで、この問いかけをより多くの方々と共有することを願い本書にまとめました。また、先生と相談し「阿弥陀さまからの提案」という副題もつけさせていただきました。
最後になりましたが、本書の発行を御快諾いただきました沖野頼信先生に深甚の謝意を申し上げます。2016年10月1日

推進員の活動に関する検討会

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Last modified : 2020/05/07 16:55 by 第12組・澤田見(組通信員)