「機辺から説く学寮 仏辺から説く相伝」【南御堂2020年9月号より】

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教学儀式研究班で翻刻を行い、大阪教区教化センター紀要『生命の足音』第34号~第36号において発表した『三十七則御糺選要』からは、高倉学寮の講師である香月院深励たちは仏恩報謝の口称念仏を勧めていた事が知られます。

信心を得た者は、この一生を終えれば必ず往生することが定まっていることを喜び、報謝の念仏を唱え、報謝の勤行声明を勤めるのであるという香月院たちの主張には問題があります。お念仏を申す身となるという目標を人々に持たせ、感謝の念仏が自然と出るまで聞法しなさいという命令になります。

また、お念仏を申す身になる事で信心を得た事を証明しようとしてしまいます。念仏を往生の業としていないから自力では無いと考えているのでしょうが、往生を保証してくれる如来を脳内で作り上げて、拵えものの如来に喜びの念仏を捧げる信者になろうとしているのではないでしょうか。

高倉学寮が説く仏恩報謝の口称念仏に対して、「相伝」は厳しい批判を展開します。(※相伝については、「本願寺の相伝に学ぶ」で紹介しています。)

『浄土文類聚鈔』に「称名はすなわち憶念なり、憶念はすなわち念仏なり、念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり」(真宗聖典403頁)という親鸞聖人の御自釈があります。相伝(相伝義書の『略本私考』)は、この文は「口称の一辺におちざるようにと顕わしたまえる御釈なり」とし、「当流の称仏名はただ口にうかうかと唱うることにはあらず、本願に相応するがまことの讃嘆称仏なり」と説きます。

相伝は、念仏が機辺からの口称念仏であると限定しません。相伝が繰り返して説くのは、阿弥陀如来が衆生のために「南無阿弥陀仏」と示し現れた念仏であるという事です。

念仏を口に唱えられる身となったかどうかについても、全く問題にしません。それどころか、恩を得た御礼に唱えるような念仏を、心根が自力であると批判します。

このように、『三十七則御糺選要』からは、仏辺から説く相伝と、機辺から説く高倉学寮の相違点が見て取れます。

教学儀式研究班主任研究員・池田英二郎(『南御堂』2020年9月号掲載原稿を一部修正しました。)

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