今月のことば/教化センターリーフレット2012/5

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無上智慧の尊号をききて
一念もうたがうこころなきを
真実信心というなり

『唯信鈔文意』(聖典549頁)

今月のことば この言葉にある、「無上智慧の尊号」とは、南無阿弥陀仏のことです。「尊号」という場合には、本尊としての名号という意味で、六字の「南無阿弥陀仏」が一般に知られています。

 この南無阿弥陀仏という名号の別名には、「智慧光仏」とあります。何にも比べることのない、智慧のはたらきを「光」として表現されます。光は、闇を破り、闇をなくすものと受け止められがちです。その闇とは、無明ということです。親鸞聖人は、

無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだちそねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと(『一念多念文意』)

と言われます。

 日頃、自分のことは、自分が一番よく知っているし、何でもできるというのが人間の想いです。ですから、欲も、怒りも、腹立ちも、嫉みも自分で何とかできると想っているのです。しかし、知っている、何とかできるというのは想いだけで、それが、闇、無明なのです。

 親鸞聖人は、煩悩多いこの身が、死ぬまで絶えることがないのだと頷かれます。智慧は、その闇を破り、その事実を照らし出すはたらきなのです。

 そういうはたらきを持つ尊号(南無阿弥陀仏)のいわれを聞いて、よくよく我が身に問い尋ねていくこと以外にない。そのことを通して、はじめてこの私は、煩悩の多いこの身であるということから一歩も出られない身であることが知らされるのです。それが、「真実信心」なのです。 親鸞聖人は、

きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「聞」というなり。また、きくというは信心をあらわす御のりなり(『一念多念文意』)

と教えてくださいます。

(所出・教化センターリーフレットNo300 2012/5発行)