「未来は過去をとおし 果後の方便をとって」【南御堂2020年11月号より】

Pocket

法務中、最近よく「未来がない」という話になる。とくに少子高齢化の問題等は、お内仏の返還や墓じまい、さらに宗教離れの話に発展し、「誰もみてくれる人がない」、「もう私で最後」と開き直りつつも、悲壮感漂う雰囲気になる。人は、時に思い通りにならない将来や未来に希望を見出せず不安になる。

生物の長い歴史の中でもっとも重要なのはいかに生き残るかである。生き残るために危険を回避し、対処するのが生物であるが、より不安定で変化の激しい環境の中でも適応できるのが哺乳類だそうである。哺乳類は多くの記憶を蓄えて、過去の学習によって未来予測行動ができる。その最も発達した生物が人間だそうである。

「未来がない」という話は、過去の記憶や経験、歴史を偲ぶことがない故に、未来を願い想像することも出来ないではないだろうか。

現に今自身が存在するのは、果てしない過去からいのちの歴史や願い、はかり知れない先達方のご苦労とお育ての賜物である。

「現在は 過去をとおして 未来する」、「未来は 過去をとおして 現在する」は、曾我量深師『時間論』の一節である。しかしその恩徳を忘れ、過去の歴史や願いを顧みずして我が想いで未来を求める。それは過去を見失い、未来を見出せず、現状を対処することに振り回され続ける我が身である。まさに人間を見失い三悪道に趣くべき姿である。

「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり」。阿弥陀仏が十劫もの過去に、すでに成仏して下さったお姿は、道に暗く迷いの衆生を照らし導かんと、往生を待ち望んで下さっているお姿である。その衆生往生せずは、われ正覚をとらじと、未来の衆生の救済を決定するために、法蔵菩薩となってご苦労の末に願を起こされた。その願いは成就して、すでに成仏しておられるのである。それは迷いの衆生ある限り、「いつでも」「どこでも」「だれにでも」、照らし続けて下さっている。

果後の方便をとって未来を約束して下さっている。

 教学儀式研究班研究員・北畠玄(『南御堂』2020年11月号掲載記事を転載)

コメント 1件

情報をクッキーに保存する