今月のことば/秦治人

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仏かねてしろしめして 
煩悩具足の凡夫と
おおせられたる

『歎異抄』(聖典629頁)

今月のことば 煩悩具足の凡夫という言葉は、私を浄土信仰に導く厳粛な仏言である。

 このことを忘れると驕慢心を隠すためや造悪無碍的な居直り、あるいは自分への甘えの言葉となる。

 『歎異抄』第九条はそのことを教えている。第九条は親鸞聖人と唯円の問答である。唯円が、「念仏を申しているが、今では天におどり地におどるほどに歓びが身にそなわらない、またすぐにも浄土に生まれたいという気持も欠落している。これはどうしてでしょうか」と聖人に尋ねた。それに対して聖人は、「わたしもその不審があったのだが、唯円よ、おまえも同じだったのか。しかしよくよく考ええるなら、天におどり地におどるほどに歓ぶべきことを歓ばないことで、浄土に生まれることは一層定まったと言える。歓ぶべきことを歓ばせないのは煩悩のせいである」と答えられた。これにつづく言葉が、「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば・・・」である。この意味は、「煩悩具足の凡夫」という言葉が、私の驕慢や甘えの心を許さない真理であり、前もって私たちに呼びかけておられる仏言ということである。聖人は、

煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやます(『唯信鈔文意』)

凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず(『一念多念文意』)

と丁寧に釈されている。

 仏智の光に顕われる凡夫という真理。この真理に対して敬虔で従順であること、そして如来の名号への
心からの服従、ここに浄土の信仰がある。その信仰の中で、もし自分を許し、また他者への寛容やねんごろなるこころが現われるとすれば、それは信仰による変容であり恵みなのである。

造悪無碍・・・どんなに悪を造っても往生の障りとならないという主張。(真宗新辞典)

(秦治人/所出・教化センターリーフレットNo291 2011/8発行)