お念仏の解釈

じゃあ南無阿弥陀仏とはどういう意味なのかということを確かめたくなります。

お念仏の解釈をすることは、本当は慎まなければならないのですが、このことを抜いてお話しするといつまでも分からないままになります。

南無阿弥陀仏と言いますのは、これは中国の念仏者が作り出した言葉なんです。だから漢字で書いてあるのです。でも、中国の念仏者が勝手に作り出したのかというとそうじゃないのです。これはちゃんとお釈迦様の説かれた教えの中にある言葉なのです。

まず、「南無」というのはナマスという言葉です。インドの字でナマスと書くんです。またはナモとも言われます。それを中国の人はそのまま漢字に直して「南無」と書いたんです。ですから、この「南無」という漢字には何も意味がないのです。

今は住職をしている私の息子は、一九六八年生まれですからもう四十九です。その息子と小学校入学式のその日から、毎朝本堂で一緒に座ってお勤めをしました。息子はお勤めが終わってからご飯を頂いて学校へ行くという生活を、毎朝六年間ずっと続けたのです。その日も本を開いてお勤めをしておりましたら、息子が「お父さん、これ南が無いってたくさん書いてあるけれど、なんで南が無いんや。南が無かったら北ばっかりか」と質問してくるのです。これは南無という字を見ているからです。この字には何も意味はないのです。これはナマスというインドの言葉を言えるように字を当てはめただけなのです。

ところが親鸞聖人はこれをわかるように「『南無(なみ)』の言(ごん)は帰命(きみょう)なり」とこう解釈されたのです。「ナマス」というインドの言葉は、意味のある言葉に直すと「帰命」という言葉になるのです。この時の「命」というのは「いのち」の意味ではなくて、命令の「命(めい)」であって、「仰(おお)せ」という意味です。「帰」は帰る。帰るは「帰順(きじゅん)」ですから従うということです。「帰命」は仰せに従うという意味なのです。だから阿弥陀様の前で仰せに従いますと頭を下げたのが「南無」という言葉になるのです。

ちょっと難しいのですが推進員の皆さんですから、あえてこの言葉を黒板に書きます。

 「南無」の言(ごん)は帰命なり。「帰命」は本願(ほんがん)招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)なり。

親鸞さまは「『南無』の言は帰命なり」とおっしゃるのです。ナマス(南無)というのは帰命という意味なんです。じゃあ「帰命」とは何かというと「本願招喚の勅命」である、とこうおっしゃるのです。

本願というと阿弥陀如来が私たちにかけてくださった願いです。「これよりほかに幸せはありませんよ」と、かけてくださった願いです。その願いに阿弥陀如来様は「手で召いて(招)」「大きな声を口に出して(喚)」私たちに伝えて下さっているのです。

その仰せに従うのです。だから帰命の命は仰せ、それが南無という意味なんです。南無と頭を下げたときに私たちは「阿弥陀如来様の仰せに従わさせていただきます」ということになります。 

アミタ(阿弥陀)もインドの言葉なんです。これはアミターユスという言葉とアミターバーという言葉が一つになっているのです。アミタは無量という意味なのです。

仏教で「ア」が付いたら「無い」という意味だと思ってください。阿修羅(あしゅら)というでしょ、阿修羅を一般の新聞では仏さまと言っていますが、本当は仏教を守る神さまなのです。阿修羅の阿(ア)は「無い」ですから、修羅では無いということです。修羅というのは争うですから、阿修羅は争う心が無くなったということです。阿弥陀のアは無い、ミタは量、アミターユスは寿(いのち)、アミターバーは光、そうすると阿弥陀という仏様は無量寿と無量光を背負っておいでになるのです。これが阿弥陀如来様なんです。

なぜいのちを奪ってはいけないのか

このときの「寿(いのち)」、無量寿というのが問題です。最近は「いのちを大切に」とか、何であれ「いのち」という言葉がたくさん使われているのを目にしますね。大阪教区の宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマは「いのち輝け!」でしたでしょ。

自分のことで恐縮ですが、私が若い時には、真宗大谷派の仏教青年会という全国組織の活動が非常に活発だったのです。北海道から九州まで、お寺に若い人が集まって仏法を聞くという会です。この仏教青年会の全国連盟の委員長を私がしました。三十歳の時です。ですから、よく北海道にも九州にも行きました。

そのときに仏教青年会の独自のスローガンを作ろうということになりました。今はすぐスローガンを作りますが、その時分はあまりスローガンとか言わなかったのです。それでも、これが仏教青年会だというスローガンを作ろうということになりまして、その時に作ったのが「いのちの花一輪、いつも確かに咲かせていたい」というスローガンです。これ、私は今も使っています。五十一年前、もう半世紀前のスローガンですけれど、今でもちゃんとそうだなと思うのです。これが大谷派のスローガンの始まりです。その後でいっぱい出てきて、もう何時にどれが出来たのか最近わからないようになっていますね。

今、校長先生で「いのちを大切に」とおっしゃらない方はいないと思います。ただ、その「いのち」とは何をおっしゃっているのでしょう。一度それを聞いてみたいのです。何を大切にしなさいと子どもたちにおっしゃっているのでしょうか。うっかりすると「動いている心臓を止めたらいかんぞ、呼吸を止めたらいかんぞ」、言い換えれば「人を殺したらいかんぞ」という意味の「いのちを大切に」だと思うのです。

なぜ、人を殺めてはいけないのか。仏教で説かれる、人間が人間らしい生活を失ってしまう十の行ってはいけないことがあります。これを十悪と言います。その一番は、殺生、殺してはいけないです。これはいのちを奪うことです。たぶん校長先生はそうおっしゃってるのだと思います。いのちを奪ってはいけないと。

じゃあ、なぜいのちを奪ってはいけないのか、なぜそれほど人間のいのちは大事なのか。相模原市(さがみはらし)の障がい者施設を襲った人が言っていたでしょ。「こういう人たちはもう生きていないほうがいいんだ」と。では「なぜ、全ての人のいのちは同じように大事なのですか?」と問われたらどうします。すぐに答えられますか。

なぜ殺してはいけないのか、なぜ殺生はいけないのか。これは、その人に必ず「寿なる」いのちがあるからです。これは何かというと価値、値打ちです。その人にはその人の値打ちがあるんです。

例えば昔から石には石のいのちがあるというじゃないですか。じゃあ石のいのちって何ですか。石に心臓があるのですか。そういういのちじゃないですね、ここでいうのは「寿なる」いのちです。では、石の「寿なる」いのち、価値、値打ちは何ですかと問えば、それは重さです。石のいのちは重さです。この石は綺麗な色なんですっていうのはその人の思いです。綺麗な石を愛でて、そうでない石をバアンと河原に投げつける。これは差別につながるのです。「この石の恰好がいいじゃないですか」と床の間に置いてる人がいますね。じゃあ恰好の悪い石には値打ちがないのですか、ということになります。格好がいいとか悪いとかは私の思いが決めます。ここに差別が生まれるのです。

石の値打ちは重さなんです。そう考えたら、漬物の石を大切にするおばあちゃんが、一番石のいのちを尊んでいるのかもしれません。あるいは、お葬式で偽の作った石を持って来て水車を回したりするでしょ。あれなんて哀れなもの、愚かなもの、必要のないものと皆さんつくづく思いませんか。石の値打ちのない空っぽの石を置いて立派なお葬式が出来ましたと、どうしていえるのでしょうか。

価値がわかると本物と偽物がわかってくるのです。全てのものに価値がある。無量ですからね。全部のものに価値があるのです。われわれが捨てているものにも全部価値はあるのです。その価値こそがいのちなのです。

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Last modified : 2020/04/28 17:56 by 第12組・澤田見(組通信員)