5 人生の事実

 これもよく申し上げることなのですが、私どもの大学では、仏教科の学生は、いわゆる海外研修ということで、ネパール、インド、中国という国々を一緒に旅行するということをしております。

 そして、その年はネパールへ行くということで、みんなに発表されたわけですが、そうしたら一人の学生がやってまいりまして、「自分はみんなと一緒にそういうところに旅行するということに納得がいかない。何で一緒にそういうところに行かなければならないのか。納得がいかないから、私は参加しません」と、非常に肩そびやかして、強い調子で抗議に来た学生がおりました。

 彼としては、納得がいかないままに行くということは、自分の貴重な人生を無駄に過ごすことになるという思いもあったのでしょうね。その時に、大変、皮肉な言い方になったかと思うのですけれども、「君は、本当に納得のいかないことはしないか」と聞きましたところ、「絶対にしたくない」と、その学生は頑張るのですね。それで、「それなら君は、どうして生きているの」と聞きましたら、キョトンとしておりました。「君は納得して日本人になったの、納得して男として生まれたの、そして、今いろいろ反抗したり、お父さんと対立したりして、苦しんでいるそのお寺の子として、納得して生まれてきたのか」と聞きましたら、まあ、困って黙ってしまいました。

 納得できないことは絶対にしないということになったら、日本人として生きていくということは、これはおかしいことになる。男として、寺の子として生きるということは、全部、納得する、納得しないを越えて、与えられていたあなたの人生の事実ではないかと。その人生の事実を私の人生の事実だと受け止めて、そこから歩み出すことのほかに、生きるということは始まらないのではないか。納得する、しないではなくて、受け止めるか受け止めないか。そのことの方が一番根っこの問題ではないのだろうか。そういうことを申しました。

 私は、先ほど言いましたように、73歳になりまして、いろいろな面で老化現象が起こっております。そして、悲しいことに友だちが次から次へと亡くなっていきます。死というものが本当に身近にだんだん感じられてまいります。だけれども、この老いるということも、死ぬということも、これは納得してきたわけではございませんね。何とか若さを保ちたいとあがきながら、気が付いたらやっぱり老いているのです。死ぬのも決して納得してから死ねるわけではございません。今は、まだ死ねないのだと、そういくら叫んでも死ぬ時がくれば死ななければならない。そうしたら人生の始めも終わりも納得できない。そういう事実で成り立っているのではないか。

Pocket

Last modified : 2014/01/27 23:01 by 第12組・澤田見