コラム法話 #生老病死 「生老病死」と新型コロナウイルス【しゃらりん36号】
- 2020年07月05日(日)9:15
世界中を震撼させた今回の新型コロナウイルスの感染拡大は、私たちの生活に大きな影響を与えました。コロナ禍で個人の抱えている問題に対しては、国の政策はお金やマスクをばらまくだけで、本当に困っている人の生活を守ってくれませんでした。そのことで、逆に一人ひとりが嫌でも自分の問題として考えざるを得なくなりました。「マスク」「消毒用アルコール」を求めて店を彷徨ったり、「コロナ離婚」という言葉が生まれたり、「家族とは果たして何でも理解し合う仲のいいものなのだろうか」、「自分も感染して死ぬのでは」とフッと不安に思ったりしたことはなかったでしょうか。
これまでの私たちは、子育てや教育、防災、ごみの処理から生老病死までをも専門家や行政から提供されたサービスに「お任せ」し、ぶら下がる一方で、それが自分の思い通りに叶わなければクレームをつけるという生き方。自分は責任を放棄して他人にすべて「押し付ける」ような生き方をしていたように思います。また、不安に思うことはよくないことで、求められる「いつも明るく未来を見つめる日本人像」から外れないように細心の注意を注いで生きてきたのです。
そのことが今回の新型コロナウイルス感染拡大で夢を見させられていたことに気づかされたように思えます。
私がハンセン病問題と出会ってから30数年が経ちます。ハンセン病患者とその家族が受けた差別。県からハンセン病=らい病を出してはいけないと、1930年代に「無らい県」運動が全国で進められました。患者は強制的に家族から引き離されて療養所に隔離され、残った家族も、結婚や就職を拒まれるなどの差別を受けました。
患者を排除したのは、「それが正しいこと」と信じた「普通の人たち」でした。ハンセン病回復者の竪山勲さんは「(新型コロナは)ウイルスの全容がわからないことで恐怖が増したのではないか。怖いと思って身を守ろうとする。―中略― 憎むべきは新型コロナウイルスであって、患者ではない」と訴えます。(MBC南日本放送/2020年5月19日)
不安や恐怖からくる、感染者やその関係者に対する誹謗・中傷、インターネット上での差別的書き込みが問題になっています。
人から与えられた夢ばかりを貪ってきたことに気づかされた時、「生老病死」から逃れられない私が見えてきました。すると、「自分も感染して死ぬのでは」という不安や恐怖を抱えたまま「あるがままに生きて行ける道」があるのだと気づきました。そのことは「共に今を生きることの大切さ」という言葉に繋がっています。
(藤井満紀/第17組眞願寺・ハンセン病問題を共に学ぶ実行委員会)