(追記)第2組 聞法会「共に学ぶ正信偈」を開催しました

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 7月23日(土)午後2時から、浪速区の唯専寺で第2組聞法会「共に学ぶ正信偈」が、組内の住職、寺族と門徒、推進員15名が参加して開催されました。

 墨林浩組長(光照寺)の開会の挨拶、唯専寺の松岡良平法務員の調声によるお勤めの後、講師の新田修巳先生(4組 正業寺)からご法話をいただきました。

 先生は前半、思い出に残る多くの先生の教えをいただいた言葉を、懐かしく思い出されながら、教えを共有したいと。和田稠先生、安富信哉先生、松原祐善先生、仲野良俊先生等。

特に20歳の頃に出会った「親鸞教学」(曽我量深先生命名)に掲載されていた安田理深先生の「菩薩的人間」に衝撃を受けたことを。そしてその言葉から宗教に自分自身を探す道があるのだと教えられたと話された。また、先生に「もっともっと悩まなければなりません。悩み方が足りない。」これはすごいショックでした。何故か?「人類の様々な問題が私たちに圧(お)しかかってきているのです。安っぽい喜びと安心感に浸る信仰に逃避していることは出来ません。むしろそういう信仰を打ち破っていくのが浄土真宗です。」と言われました。やっと、目が覚めたという感じでした。そのことから「菩薩的人間」という言葉がしっかり根付いてきました。菩薩と言うのは、もちろん、求道者なのですが、にっちもさっちもいかない中に、立ち止まる人と言うことです。どうしようもない状況の中で、しかも何とかしていかねばならない。松原先生の言葉で表現しますと「業を受けて業を悩む、さらに業を尽くす」と言うことです。そこに菩薩的人間と言うのがあると話されました。

休憩後は天親菩薩の「帰命尽十方無碍光如来」について、「無碍と言うことは『生死即涅槃である』」と。「かくのごとき入不二の法門」(「教行信証」行巻)を引かれ、入は「証入」で悟り入る。「不二」は生死がそのまま涅槃であるということ。こういう法門があると。その法門が帰命尽十方無碍光如来と言うことで表されていると。南無阿弥陀仏と言う称名は、どいう意味があるのかと言うと「誓願をはなれたる名号も候わず候う、名号をはなれたる誓願も候わず候う」(「末燈鈔」)すなわち、名号と誓願は一つであると。

名号は私たち一人ひとりに如来が与えられたもので、信國淳先生(専修学院院長)は「この南無阿弥陀仏は如来自身を自己贈与されたものだ」と言われたと。

先生は最後に、曇鸞大師の「聞光力」を紹介し、聞くことによって力を賜っていく。称える念仏と聞こえる念仏。その聞こえる念仏によって生きる力をいただいていくことができる。そのことが称名念仏に尽きると話されました。

次回の聞法会は8月27日(土)午後2時から、天王寺区の光照寺で開催予定です。講師は広瀬俊先生です。(本持)