今月のことば/新田修己

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善人なおもて 往生をとぐ いわんや悪人をや

『歎異抄』(聖典627頁)

今月のことば 煩悩具足のわれらであるとの自覚に立って開かれた浄土真宗は、悪人正機の宗教である。善人であるとか悪人であるとかは、あくまでも相対的価値観の中での評価である。業縁のもよおしによって、わたし達は、時には善人であると持ち上げられたり、また或る時には極悪非道の悪人であると罵られたりもする。まさに毀誉褒貶は縁しだいである。

 私たちはそれぞれの存在の内奥に、他者を蹴落とし、そのいのちを略奪し、自分だけが生きのびようとする恐ろしい煩悩をかかえている。そのために人間でありながら、互いのいのちを無視し傷つけ合いながら生きざるを得ない。しかも、そのことがどんなに罪深いことかも知らず、生活の場が地獄化してしまっている。このような苛酷な現実を生きざるを得ない私たちであるが、決してそこにじっと停まっていることもできない。誰もが地獄のまっただ中で、無意識のうちにそこを抜け出すことのできる道を必死に探
し求めている。

 『歎異抄』は、そんな私たちの存在の闇を照らす遥か彼方にある天空からの一条の光である。青春時代から今に至るまで、座右の書として繰り返し愛読してきた『吉野秀雄歌集』の中に、次の一首がある。

業深き我が身一人のためにこそ
 このよき書は今に殘れか
       (歎異抄を誦みつつ)

 この歌は、吉野秀雄(一九〇二ー一九六七年)が懊悩の人生のなかで、ゆくりなくも出遇った『歎異抄』への溢れんばかりの讃歌である。

 私も年月を重ね、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」との『歎異抄』の一言を、業深い我が身一人のためであったと、今に至って始めて襟を正してうやうやしく押し戴くことができるようになった。

(新田修己/所出・教化センターリーフレットNo290 2011/7発行)