今月のことば/稲垣俊一
- 2015年04月20日(月)1:20
『歎異抄』(聖典626頁)
私たち人間は一人一人、いかなる国、いかなる民族であろうとも、また、いかなる生き様をしようとも〈老・少・善悪のひと〉を選別しないで、すべての人と同等に生存することができる。
これは、宗祖親鸞聖人が〈弥陀の本願〉を聞き開くことによって眼を開かれた自覚のお言葉である。
かつて、聖人のもとに二、三千人ともいわれる関東の門侶がおられた。
うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり(『歎異抄』634頁)
つまり、苦しみつつ生き、悲しみつつ生きている人生にあって、人間としていのちをつぐともがらという人間の立場に立って建てられた〈弥陀の本願〉が、人間の生存を根底から問い直す教えとして、聖人のもとにあって、多くの人びとが問い、訪ね、聞き開いて、そしてそれが多くの人びとの生きる力となって受けとめられていったということである。
今日、東日本大震災によって、目の前で家族を亡くし、築きあげてきた資産を失い、まるはだかになられている情況にあって、被災者も被害者も私たち一人一人が今日までどのような人生を歩み、どのような人間観をもって生きてきたか。これから私たちはどのように生きていくことがほんとうに確かな人間であるかが問われている。
煩悩具足の一人の人間として、弥陀の本願を教えて生き抜いてくださった聖人のこの自覚のお言葉をとおして、改めて、この世に生存するすべての人と共にほんとうに安んずる道としてあきらかにせずにはおれない。
(稲垣俊一/所出・教化センターリーフレットNo292 2011/9発行)