今月のことば/當麻円純

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如来ともうすは 無碍光如来なり

『唯信鈔文意』(聖典547頁)

今月のことば 如来とは、真如(絶対究極の真理)に随って来たり現れた者のことで、仏のことです。『浄土論註』には

如来は法相の如く解り、法相の如く説き、諸仏安穏道より来るが如く、此の仏も亦是の如く来てまた後有の中に去らず、故に如来と名く

とあります。また「無碍(むげ)」とは、妨げのないこと、何ものにもとらわれない、そのままという意味があります。
   
 近年はこれから就職しようと考える若い人たちにとって、たいへん厳しい時代です。少しでも就職先を確保できるようにと、いろいろ資格を取ろうと必死になって頑張っています。まさに資格によって選考から生き残り、そこから自分の人生が始まるとの思いです。

 そのような風潮は選考する者もされる者も、人間のあらゆる価値を資格で計るという孤独な人間を作っていきます。「目の前にいる人間が人間として見えなくなる」ことに慣れっこになります。

 鎌倉時代に生きた「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひと」(歎異抄)もまさに救われる資格がないと考えて苦しんでいたのです。

 一切の人々を救うという誓いを立てている仏は資格や枠というもので人間を選択しません。本来、深い自己愛を持たざるを得ない人間に「碍(さわ)りは在るけれど、何もさわりがありませんよ、さわりとしませんよ」と働きかけてくださる仏が無碍光如来です。

 「今月のことば」が出てくる『唯信鈔文意』は親鸞聖人の著作で、同じ法然門下の兄弟子である聖覚法印が「念仏の要義」を簡潔に述べた『唯信鈔』に引用されている経文などについて、その意味を聖人が解説されています。

(當麻円純/所出・教化センターリーフレットNo295 2011/12発行)