今月のことば/千賀雅夫
- 2015年01月20日(火)1:58
みなもって そらごとたわごと まことあることなきに
ただ念仏のみぞ まことにておわします
『歎異抄』(聖典640頁)
「煩悩具足の凡夫」とは限りなき欲望をそなえた平凡人という意味です。
その意味は、煩悩をもつわたしたちは、ものごとを正しく見抜く眼をもたず、自己愛がはげしく、つねに自己中心にものを見、他に対して慢心をいだくという自己関心につらぬかれ、加えて欲望と怒りの心が身に満ちている存在だ、ということです。
こんな自分を単純に肯定していては、この世は燃えさかる煩悩の火に身をこがす「火宅無常の世界」のほかありません。
日常わたしたちは、善悪のしがらみの中に生きています。この人は良い、あの人は悪い、これは正しい、あれは間違っている、といつも判定をし選びをしています。この善悪の判断は必要なようでもありますが、所詮は煩悩にもとづく判定で、まことに主観的で皮相なものなのです。
親鸞聖人の言葉に「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」という言葉があります。善悪は自
分にはわからない、といわれるのです。これは、この世に善悪正邪はないといわれているのでありません。
仏のような智慧の眼をもたない自分には、何が善であり何が悪であるか、知り通すことができない、わからない、という懺悔の告白なのです。
聖人のこの懺悔の心からみれば、わたしたちは浅薄な知恵で善悪をあげつらい、それに固執していることが知らされます。「みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」と、愚かな生き方に頭が下がらないといけないのです。
お念仏は如来の慈悲と智慧を体現したものです。
お念仏の智慧の光によって、自分中心の善悪観の中途半端が照らされると、わたしたちの人生の事実は、善悪を超えていかされていることが知らされます。これを業縁存在といいます。
お念仏は善悪観の皮相を照らし、業縁存在に気づかせる「まこと」なのです。
(千賀雅夫/所出・教化センターリーフレットNo289 2011/6発行)