年忌法要は仏法聴聞の勝縁/墨林浩さん

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2025年12月1日に広報・出版部より発行いたしました「2026年年忌表」チラシに寄稿頂いた墨林浩さんの文章です。

年忌法要は仏法聴聞(ぶっぽうちょうもん)の勝縁(しょうえん)

 私たちにとって、ご家族の年忌法要は故人とご縁があった方々が、仏様の教えに出会う大切な仏事であります。

 しかし、一般的にはどうも、「追悼」または「慰霊」といった言葉で表されるような、故人を偲び、その死を痛み悲しみ、「冥福を祈る」といった心情で法要をお勤めしていることが多いようです。それは、亡き故人に対しての「追善供養(ついぜんくよう)」といった営みであったりもします。確かに、亡き人を偲び、故人との関わり合いを追慕することは人として大切な心情ではありましょう。

 ただし、その心情の延線上で、仏前において「家内安全、無病息災、除災招福」を願う思いを抱くならば、それは故人や仏事を、残された者の欲望を膨らませる道具にしかねない、あえて申せば、仏事を煩悩の応援団にしてしまっているようです。

 そもそも仏様の教えは、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を説くものであります。人の生き死にも「生死無常(しょうじむじょう)」「老少不定(ろうしょうふじょう」と教えています。真宗門徒の宗祖である親鸞聖人も、人の死を、

なごりおしくおもえども、娑婆(しゃば)の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいるべきなり。

(『歎異抄』/真宗聖典771頁)

と、なごりおしい心情はあれども、事実は娑婆の縁が尽きて、亡き人はお浄土で諸仏としてましますと仰っています。さらに、

親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。

(『歎異抄』/真宗聖典769頁)

とも仰っています。

 私たち真宗門徒にとっての年忌法要は、故人を偲びつつも、ご命日をご縁にして、この我が身が存在する「生命」の深い歴史を確かめ、この身にかけられた阿弥陀様のご本願に頷きつつ、仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の中で、仏法聴聞を深める勝縁として大切にしたいものです。

(光照寺住職 墨林 浩さん)

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