7、在家者への説法

『無量寿仏観経』、普通『観経』という経典ですが、これは経典史上において、まことに特異な位置をもつ経典です。というのは、『観経』は、一つには『法華経』の延長線上にあり、もう一つは『涅槃経』の延長線上にも位置する経典ということです。
『法華経』は一乗ということを課題にした経典です。釈尊が仏と名告って教化された。それは、釈尊の言葉を理解し、その言葉に感動して釈尊と歩みを共にする者のためにだけ法をお説きになられたのではない。釈尊が目ざされたのは、誰のうえにも仏陀の覚りが開かれるということを課題とされた。
 そういうことが出てきますのは、釈尊が仏陀と名告って教化されたけれども、現実にあったのは出家の男女、つまり、比丘・比丘尼といわれる人で、多くの人は無縁であった。実際は出家者だけに説いたのではないが、現実には、出家者だけがその道をたずねるということになっている。
 長老舎利弗とか長老阿難といわれる、釈尊の十大弟子といわれる人ということになります。長い間修行を重ねている者、そういう人だけに仏教というものが開かれる、そんなことではないということで、長老に対して在家の青年維摩に仏教を語ることによって、出家者だけの仏教という殻を破ろうとした。それが『維摩経』のもつテーマです。
『勝鬘経』という経典があります。これは、在家の女性が仏陀の覚りを開く。そういう小乗を乗り超えて大乗ということを、大乗経典は表現しようとします。
 そしてその完結点に『法華経』の一乗思想というものがあるかと考えられます。いかなるもののうえにも仏の覚りは開かれる。
 ただその時に問題がでてきます.どういう問題かというと、行の問題です。誰のうえにも覚りが開かれるという場合に、覚りが開かれるという時には行がなければなりません。
 しかし、もし一つの行というものを固定するなら、できる者もあるしできない者もあるということになります。できない者がでてくるとすると、とたんに一乗ということを失っていきます。そうしますと、一行というように限定できないことになります。
 たとえ、行が一乗という法であっても、機にそぐわなければ一乗は理にとどまってしまいます。そこに万行というものがたってきます。よろずの行が覚りに至る道として説かれてきますと、行の意義がいよいよ抽象化・観念化せざるを得ないという矛盾をかかえます。
 どんな行も覚りに至るとなれば、行自身に問題がでてきます。さらに、機にはどんな目覚めもなく、ひたすら、行の功能をたのむということをになっていきます。
 こういう内容や方向をうけて展開しているところに『観経』の一面があります。それは『観経』の序分の終わりの方に、韋提希が定善を請うたにもかかわらず、釈尊は散善というものをお説きになられます。
 その散善は、最初に父母に孝養をつくす、とでてきます.考えてみれば、親孝行することと、仏の覚りを開くこととは、とりたてて関係があるわけではありません。行が非常に広くなるわけです。
 善といわれるものなら何でも仏陀の覚りに結びつくということになりますと、行がでたらめになっていく傾向をもちます。そういう点では、『観経』にでてくる散善の内容というものは、『法華経』の誰のうえにもという思想を受け継いでいるものかと考えられます。
 つまり、一乗を現実化しようとすれば、いずれの機にも耐えられる行をたてなければなりません。しかし、普通の意味は、そういった行はすぐさまに一乗の行となりませんから、一乗の行であることを基礎づける論理化がされなければなりません。
 しかし、衆生には、どのような論理的な基礎づけがされましても、目覚めがおこることがありませんから、作した行を回向することになります。回向が必要となりますと、現実には二乗化してしまいます。
 それで『観経』は一乗という証を浄土往生に求めて、一乗思想のもつ矛盾を乗り超えようとしたと考えられ、その意味で、『観経』は『法華経』の延長にあるといえます。

8、悪人への説法

 もう一つは『涅槃経』です。『涅槃経』がテーマとしましたのは、仏性の問題です.「一切衆生悉有仏性」というテーマです。
 仏性という、その性という字については、いろんな言語が考えられるわけです。一つはブッダトバというtvaという、名詞を抽象化する場合に使う言葉で、仏たること、というような意味で仏性という言語が考えられたり、ブッタゴートラという字があてられます。
 ゴートラというのは、種族とか、同じ血筋をひく者とか、広い意味でいえば、民族というような言葉になります。つまり、仏陀と同族の者、別の言葉でいえば同じく仏の家に生まれる者という意味で仏性ということがいわれます。
 まとめて言えば、いずれの衆生も仏と無関係な存在はいない、したがって、必ず仏陀と関係をもつもの、ということで『涅槃経』に仏性がでてきます。
 仏陀と関係をもつ、ということが、必ず未来に仏陀となるということから、性が因と考えられてきたといえます。しかし、このようにみんな仏の因を持っているのだといいますと、「ではあの連中もそうなのか」、という「あの連中」という軽蔑を含んだ言葉で呼ばれる存在がでてきます。
『涅槃経』がとりあげましたのは、一闡提という存在です。一闡堤というのは、イッチャンティカ(icchantika)というサンスクリットの音写で、その意味からいけば、欲望にとりつかれて善をなす根を断ち切られている、善をなそうという心もない者という意味になります。ただインドの状況から考えますと、このイッチヤンティカというようにいわれている存在は、もっと社会的な意味をもっていたかと思います。カースト外の存在もそういうように見られていたと考えられます。
 あんな連中にも仏陀となる因があるのか。つまり、この『涅槃経』は悪人という問題をとりあげます。『法華経』は誰のうえにも、ということを説いたのです。老少とか在家出家、あるいは男女ということに関係なしに、という点は開いたのですが、さすがに悪人という問題はとりあげなかった。
『法華経』においては、悪人ということはでてきません。経典の中で真正面から、こういう悪人の問題をとりあげたのは『涅槃経』といっていいかと思います。
 誰も彼も、一切生きとし生ける者が仏の因をもっている、と言い切ったときに、では悪人もかという問題がでてきます。そういう意味で『涅槃経』に阿闍世がとりあげられてくる理由があります。
 頻婆娑羅といえば、釈尊に帰依し、釈尊を供養する、仏によく仕えた王です。その仏陀によく仕えたところの王、それも罪のない王を殺した阿闍世というのは、鬼のように見られても不思議でなかったと思うのです。
 人間ではない。では、人間でないようなことをする阿闍世、その男にも仏性というものがあるのかという問題です。そういう悪の問題にからんできますので、『涅槃経』の中に阿闍世の問題がとりあげられたかと考えられます。
 そういう悪人が仏性をもっているとするなら、どういうふうにしてその悪人は仏の覚りを開いていくのか。そうなりますと、一つ考えられるのは、改心するよりほかに手はないわけです。以前の心を改めていく。悪を改めて、善人になっていく、という方向が成仏の前提条件になるかと思うのです。
 それもどのようにしてという行の問題になりますと『涅槃経』においてもはっきりしたわけではありません。しかし、釈尊が仏となって教化なされたということの意味を、もっともよく表したものといえば『法華経』と『涅槃経』ということになります。
 文字通り、老少善悪の人を選ばないで、その人のうえに仏の覚りが開かれるように、ということで仏は法をお説きになられた、というように仏陀の出世の意味をもっともよく表現したものが、この二経でしょう。

9、悪人成仏

 そして、この悪人の問題を『涅槃経』以上に徹底してとりあげたのが『観経』です。『観経』の下品下生の衆生、その衆生は十悪五逆をなしてきて臨終を迎えている衆生です。
 この臨終の衆生というのは、どんな可能性ももはや断たれたものという意味になります。臨終ですから、今から改心してやりなおしますという、そんな力も時間もありません。
 つまり、全く可能性というものが断たれて、そして悪をなしてきたんだから、その報いをどんな形で受けてもかまわないという覚悟もできていない。ただ恐れの中に、可能性のない中でのたうちまわって生きることも死することもできない悪の存在ですから、『涅槃経』がとりあげた悪の問題 を徹底してとりあげてきた、という意味が『観経』にあります。
 そうしますと、この『観経』という経典はまことに特異な意味をもったものといわなければなりません。それも、どんな可能性も断たれている存在、その存在が南無阿弥陀仏と称すること十声に及ぶことで仏陀の覚りを開く、とあります。このようなことは今まで、どんな経典においても説かれなかったことかと考えられます。
 このことが中国の仏教を求める人達、中国の仏教徒達に大きな衝撃を与えたということは想像にかたくありません。そしてその衝撃は大きくわけて二つになっていったかと考えられます。
 一つは、全く可能性のない者が、南無阿弥陀仏ということで覚りを得るとするなら、南無阿弥陀仏というその行は、ほとんど魔術、呪文と考えられ、とてつもない力、圧倒的な力をもって中国の人々の心をうったことです。そして、そのように考えていた人達の存在は予想されます。
 もう一つは、出家者を中心に、仏説であるなら、全くでたらめというわけにはいかないが、しかし、気休めの方便だ、として衝撃を受けとめようとしたことです。
 いずれにしましても、この『観経』の「下品下生」の教説はショッキングであったことは間違いないでしょう。ところで、この『観経』が説く全く可能性を無くした者が覚りを開く、それも、南無阿弥陀仏ということによって、覚りを開くということに深い注目を与えたのが善導です。
 この善導が、二度にわたって六字の南無阿弥陀仏という、六字の解釈をしていらっしゃいます。それは『観経疏』の「玄義分」のところに二回でてきます。

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Last modified : 2014/10/30 22:29 by 第12組・澤田見