10、二度の六字釈

 なぜ二度であるのか、これには理由があります。先程、『観経』の教説が衝撃的だったと申しましたが、そのショックが二つの方向をもった。そして、この二つの受容の仕方は必ずしも正しいといえない。ですから、これらの方向にこたえるべく、善導は二つの六字釈をなすのです。実に現実の課題をもったものです。
 一つは、

言南無者即是帰命、亦是発願廻向之義。言阿彌陀佛者、即是其行。以斯義故必得往生(聖教全書Ⅰp457

という六字釈です。
 もう一つは、南無阿弥陀仏というのはインドでの発音である。呪文ではなくて、インド人が言っている発音だと。もしそれを我われが言うとするなら、「帰命無量寿覚」と言わなければならない。南無阿弥陀仏という、その一字一字に、南とは帰、無とは命というようにあてられて、「帰命無量寿覚」というようにされた六字釈です。
 そうすると、少し知識のある人は、南無阿弥陀仏というのはナモアミターブハ、あるいはナモアミターユスというサンスクリットを音写したものだから、善導のように南とは帰、無とは命という、そんな字のあて方はでたらめだということになります。
 しかしそれはただそういっているだけの話で、サンスクリットを知っているからといって仏教がわかるわけではありません。善導がしようとしたのはそんな程度のことではなかったのです。
 善導は、南無阿弥陀仏ということは経典にでてくる。したがってそれは仏言である。少くとも、その仏言をこの国の言葉に改めるとしても、その仏言の品格を落すわけにはいかない。そして、仏言の数を変えるわけにはいかない。六字という仏言の数をかってに変えてはいけない。そして、その意味するところも仏言の品位を落さないようにということがあって、あえて無茶だといわれるような、南は帰、無は命というあて方をされて「帰命無量寿覚」ということをいわれます。
 これによって、全く可能性のない者が、南無阿弥陀仏と称することで他の覚りを開くということは呪文ということではない。南無阿弥陀仏ということは、呪文でも魔法の力でもない。そこに六字釈のある意味があります。
 もう一つの六字釈が生まれてきますのは、まったく可能性のない者が南無阿弥陀仏ということによって助かる。それをまず行として認めたとしても、そんな程度の行で、つまり、ほとんど努力の意識をともなわない行でどうして仏の覚りが開かれようか、これは方便にすぎない。それは行というよりは、人間の希望に応えただけである。それは希望にすぎないんだというように受けとっていた人があったに違いありません。
 ですから、南無というのは帰命ということであり、それは発願回向という意味がある。そこに願ということがあり、意欲ということがある。しかしそれは単に願だけではない。阿弥陀仏というのが、その行なんだといいます。「其」(その)という字は帰命ということをさします。
「その行」というのですから、我らに帰命ということをおこさしめる働きが阿弥陀仏というのだと.もっと言えば、我われに仏に気づく、仏を見出すということはありえない。なぜなら、我われは仏陀を知らないからである。我われは、仏という言葉から仏という理解をもっている。仏とはこうだ、という認識はもっているけれども、それが仏ということにはならない。それは、我われが仏ということを予想しているにすぎません。
 そういう予想をもとにして、我われは修行したり、仏を求めているわけです。自らの理解をたよりとして仏をさがしているのです。はたして、その理解した通りのところに仏があるかどうかは、これは保証の限りではありません。
 それでは、どこをさがせば仏に遇えるのか。これは誰にもわからないことです。ですから、我われに、仏に気づかせることができるのは、仏だけです。我われに仏に気づくということがあるのは、それは仏によって気づかしめられるのである。
 仏陀が我われに仏陀を気づかせる。そこに仏の行ということがある.仏の行というのは、衆生を教化せしめ、衆生を覚らしめるところに仏の行というのがあるのであって、仏の方からいけば、仏は我ら衆生を見つけだし、我らがいかなる者であるかを我われ自身に知らせる。そういう形で我われを教化せしめ、我われを覚らしめるというところに仏ということがある。
 そういう意味で、南無阿弥陀仏というのは、決して気休めというものではないし、呪文というものでもない。それは、仏の行である。
 どうしてそんなことが言えるかというと、善導に、その背景として『大経』の阿弥陀の本願ということの受けとめがあるからです。もし『観経』だけであるなら、とてつもない呪文という意味か、あるいは単なる気休めにすぎないという二つに分かれるほかないでしょう。

11、観経の位置

 そうしますと、もう一度『観経』というもののもつ経典史上の意味を考えますと、『涅槃経』あるいは『法華経』というものの延長線上にあって、『涅槃経』『法華経』がいおうとしたところのことを念仏という行をもってこたえようとした。
 しかし『観経』だけであれば、その意味は明瞭にならないわけです。そして『法華経』と『涅槃経』の延長上にあるということは、この二経というものは仏教の歴史にとって、また仏道の歩みの中にあっては、それが目指された目標点でもあったのです。
 そして同時に、一乗といわれ、仏性といわれることがあることこそ、仏道を求める理由にもなっているわけです。
 つまり、誰のうえにも覚りが開かれるということがあるからこそ仏道も求めれるわけです。仏性ということがいわれるからこそ仏道を求めるという意味もでてくるわけです。
 ですから、目標と同時に出発の意味をもっていたものが『法華経』『涅槃経』の意味したものです。そういうものを受け継いでいるところに『観経』があるわけです。ですから、『観経』というものを明らかにしていくなら、それは釈尊以降の仏教の歴史というものを、原理的に表すものになるであろう。
「問答」を用いられたという意味は、『観経』だけでは十分にならない。その意味が、『大経』というものとの「問答」を通じて『大経』の三心という形で、『大経』をとりだすことによって、『観経』でいわれているもの、要するに『法華経』や『涅槃経』が目指していたものが原理的に明らかになってくる。
 そこが到達点(一乗)で、後はそれを求めて、仏性に期待して進むだけだ、ということではなく、『大経』が、もちだされることによって、『観経』に内包されている意味、もっと言えば、釈尊以降の仏教の歴史全体が原理的に展開するという意味をもちます。
 今、ここに「無量寿仏観経の意」ということで、『無量寿仏観経』がとりあげられてきましたのは、そういう仏道の出発点ともなり、目標ともなっているものを受け継いでいるところに『観経』というものがあり、だから、この「化身土」といわれるものの原理にあたるものがこの『観経』の意だということになります。
そして、その『観経』のもった問題をうけて展開したところに『阿弥陀経』の意味がございます。
 親鸞の「三経和讃」を見ますと、『阿弥陀経』について、

果遂の願によりてこそ
 釈迦は善本徳本を
 弥陀経にあらわして
 一乗の機をすすめける (聖典p484

と、『阿弥陀経』を一乗ということで関係しておっしゃっておられます。
 では、『阿弥陀経』のどこが一乗ということを表しているのでしょうか。もちろん、一乗という字はでてきません。親鸞は、どこをとらえて「一乗の機をすすめける」と言われたのか。そういうように見ていきますと、『阿弥陀経』のところでいけば、

不可以少善根 福徳因縁 得生彼国。舎利弗 若有善 男子善女人 聞説阿弥陀仏 執持名号 若一日 云々(聖典p129

というところです。少善根福徳の因縁を以って彼の阿弥陀仏の国に生まれるということは不可能だといいます。
 そう言われて名号を執持する。名号を執持というここに一行、ただ念仏ということがたったわけです。名号を執持すること一日ないし七日に及ぶなら、その間一心不乱であるなら可能であって、それ以外の他のどんな行も不可能である。ただ名号を執持することだけであるということです。

12、悪人正機

 それで、なぜ他のどんな行も不可能というかともうしますと、『観経』に全く可能性のない者のところに仏の覚りが開かれる。それが南無阿弥陀仏ということによって開かれるとするなら、可能性があると思っている人たちも本当に助かるということがあるとすれば、可能性のない者のところに仏の覚りが開かれるという法のあることが一番の根拠になってきます。
 自分で可能性があると思っていることなどは、これは嘘かもしれない。もっとも確かなことは、全く可能性がなくとも、南無阿弥陀仏で助かるということであり、その意味で一乗という意味を表します。
 ですから、可能性ありと自分で思っている者も、本当に助かるということがいえるとすれば、全く可能性のないところにあっても助かるという念仏の行によるのだというところです。
 その意味で一乗だと。こういうことが背景になって、『歎異抄』第三章の悪人正機ということがでてくるといえます。
 ですから、悪人正機の思想には『観経』と『小経』のからみが背景にあり、そこに一乗ということがいわれているわけです。そういう意味で『阿弥陀経』というのは一乗ということを表すということです。
 しかし、一乗の行がたてられることで問題は済んだかというと、そうではありません。ここに親鸞が「阿弥陀経の意なり」と『阿弥陀経』をあげましたのは、一乗ということを表し、そしてその一乗を表すところの行というものがそこにたってきた時に、人間はそれで済むかといえば、決してそうではないことを問うためです。
 どういう問題があるかといえば、自分に全く可能性がないということで、念仏を捉えると、いつの間にか人間は自分に全く可能性がないから、念仏をこそ善本徳本として自分の中にとりこもうとすることです。
 善の本、徳の本として念仏を自分の中にとりこんで、それによって自己安定や、自己拡大をはかろうとする。しかし、『小経』が「化身土巻」にとりあげられた理由はただ単にそれだけのことのためではなく、仏教の目標が仏の覚りに至るということが本来なのに、いつの間にか念仏をもって自分を大きく見せる。つまり、自分を壊れないようなものにして見せる、自己安定や、自己拡大をなそうとする。つまり仏の法を利用し、しかも、利用するという形で結局流転した仏教の歴史を原理的に説き明かす意味が『阿弥陀経』に見出されたことによります。それも『大経』との関係で『阿弥陀経』のもつ意義がもう一度見なおされた。
 すると仏教の受容の歴史が罪福の信と混乱して捉えられいつの間にか、目覚めより自己拡大や自己安定を目指しているという事柄が明確にされてくる。そして、そこを批判し、そこを離れさせるということが『大経』との関係ででてきます。
 そうすると、自己拡大、自己安定を目指すようになってきた釈尊以降の仏教の歴史というものが、もう一度転換されなければならないという意味が出てきます。
 このように、親鸞はこの『観経』『阿弥陀経』というものをもって、釈尊以降の仏教の歴史を原理的に説明しようとしたわけです。それが「化身土」ということのもつ内容であり、それが『大経』との関係において「方便」という意味をもってくるといえます。
 このように、仏教の歴史を原理的に解析し、しかも、それを原理的に批判するためにたてられたものが「方便化身土巻」と考えられ、題号、標挙の文もそういった意味で考えられるのではないかということで申し上げました。

(1987年9月21日)

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Last modified : 2014/10/30 22:29 by 第12組・澤田見