3、邪定聚の機

 もっと別な言い方をすれば、ここには寺院の方ばかりではございませんけど、もし寺院に身を置く者ということで考えれば、双樹林下往生というようなことが少しも課題にならないとすれば、それはかえって不誠実といわなければなりません。
 寺院にあって、仏教との関わりをもちながら双樹林下往生というようなことが少しも思われないということであれば、仏道はさして問題になっていないことを表します。ですから、仏道を求めるという意識もはっきりしていなければ、別に求められなくったってかまわないということに、逆になるかと思うのです。
 そういう意味で、善導はこの双樹林下往生ということを、求道者の誠実さゆえにたたえられたかと考えられます。しかし、かえってそこに問題がでてきます。それが「邪定聚の機」ということです。
 先に言いました、阿弥陀の浄土は、未来において仏道の円満・完成をはたすためにたてられているものだという理解はその理解者を仏道のどこに位置づけることになるかという問題です。
 つまり、誠実さの故に、そういう理解が生じたのでしょうが、理解者を期待のうちにとどめてしまう結果となります。浄土という仏の法を自らの期待で覆い隠してしまい、浄土に触れることもできなくしてしまいます。
 その限り、その理解者には目覚め、証は生ずることはありません。親鸞はこのような仏教に誠実に関わりながら、仏陀への目覚めから疎外されたところにとどめられて動けなくなっているもののことを「邪定聚の機」と呼んだのでしょう。
 親鸞が浄土に真仏土と化身土を立てられましたのは、阿弥陀の浄土とは我われの期待を未来においてはたすためにたてられているのでなく、我われの現在の証=目覚めを明らかにするためです。
 徹底して、証、それも現在の証についてです。もし仏陀への現在の目覚めから疎外されるような浄土理解をするならば、そういう世界こそ化身土という世界です。
 ここでいう「化身土」とは、目覚めから疎外されてはいるが、そうなることをかねて如来が知っていて、そういう浄土もあるかのように説かれて、いったんそこにとどめて、次にあらためて教化しようとしてたてられている浄土のことです。つまり、そういう化身土というかたちで我われの未来において、仏道を完成させようと願うところに応じながら、もう一度教化し直すという意味が方便化身土という意味になるのです。
 化身ですから、我われを教化するために立てられている身です。ですから、誠実な求道者にとって浄土は、双樹林下往生をはたすためにあるんだ、というふうに考えられている中で、そういう理解は求道者を目覚めより疎外せしめるという、親鸞の「邪定聚の機」の問題指摘は大変ショッキングな発言でもあっただろうと考えられますし、また大胆な発言でもあったかと考えられます。
 先に、三聚について触れましたが、仏道の歩みの中で問題になることだと申しましたが、ここでいう「邪定」は、求道者のあり方が、目覚めから疎外される相をとりながら(疑城・胎宮に外なりません)、仏道に関わることを意味し、誤解よりもっと根深い出口のない理解にとどまってしまっていることをさします。
 誤解ならまだましです。底なし、出口なしの理解です。『大経』に五百年間とじこめられるとありますが、底なし、出口なし、ということを意味しているに外なりません。

4、不定聚の機

 次に「不定聚の機」について考えてみましょう。前にも少し触れたかと思いますが、『阿弥陀経』の呼びかけは、誰に対して呼びかけられているかといえば、直接には舎利弗ですけれど、途中で呼びかけられる言葉は「善男子・善女人」という言葉になります。
 阿含の経典ですと、「比丘よ」「比丘尼達よ」というふうに、出家者に対しての呼びかけがほとんどでございますが、『阿弥陀経』における、善男子・善女人という呼び方は、在家の「善男・善女」つまり、在家の人達に呼びかけられたということです。これによって、『阿弥陀経』は大乗の法であることが示されます。
『観経』においては修行者のあり方が強調して語られ、そのことが九品で示されましたが、『阿弥陀経』においては、法の面が強調されております。つまり、浄土とそれにいたる行として念仏の法が一乗を表すものとして説かれます。
 一乗の法が示されますから、呼びかける相手が在家・出家を問わないことがでてくるわけです。そして、その仏陀の世界を表すのに羅什は「極楽」と翻訳しますが、sukhavatiという原語は「極楽」とまでいかなくとも、「幸あるところ」という意味をもった言葉ですが、従来からの仏陀の覚りを表現してきた言語群と比較するとかなり俗っぽい印象を受けますが、一乗の法を表すために、どのような人々にとっても、ということを強調したためにでてきたことと考えられます。
 堅苦しい、そして誠実なものだけに願われる世界ということでなしに、誰しも苦に会いたくありませんし、福・楽を願わないものもおりませんから、そういう広く衆生の心に応えるということから、仏陀の国を極楽という言葉で表現し、浄土が一乗の法であることを示そうとしたのが『阿弥陀経』であると理解できます。
 そうすると、問題はやはり起こります。先ほど言いましたように『観経』の場合には、未来に、そのための世界であるという限定として、浄土の建立の意味を考えました。しかし、この『阿弥陀経』の場合におきましては、一乗の法として示されたとしましても、楽きわまりのない世界は人々 にとってはやはり未来に考えられるより外ないものです。
 誰もが受けとれるものとして示された、「幸あるものでかざられている世界」も衆生にとってはその通りだという証拠はどこにもありません。その極楽と呼ばれる仏陀の世界は「ここより西方に、十万億の仏土を過ぎて」ある、といわれているがはたして往けるのか、また、本当にあるのかという問題となって、我われの方に「疑い」、別の意味で言えば「はからい」が生じてきます。
「ある」と『阿弥陀経』には出てくるが、そうだとは言い切れない。では言い切れるにはどうしたらよいか、ということで、行である念仏に力を込めていくことになります。念仏する心が問題となり、その心の上に証明をたてようとしますから、ある時にはあるように思い、ある時にはないように思う。そういう意味で不定になってきます。
「邪定」の場合は、行ずる機をたのみとしながら、法の確証が得られず、「不定」は法をたのみとしながら、機に確証されえないことが起こります。求道者のあり方は、この二つを出ないでしょう。そして、しかも、このような求道者のあり様は半端な状態に置かれていることです。親鸞は仏教に関わりをもつすべての仏教者のあり方が、『大経』下巻に語る如く、浄土にはありえない邪定・不定の機としてあることを示すために「化身土巻」の標挙にこの二聚をあげられたかと考えられます。

5、方便化身

 しかも、親鸞はこの二つの機は仏陀の説かれた経典を根拠としてでてくることを同じく標挙で示しています。それが、『観経』と『阿弥陀経』の意である、とします。今日におきましても、まじめに考える人には浄土は思想上の目標と捉えられたり、共同体の基礎であると思想され、
 また、一方のところでは、浄土はあるのか、ないのか、そこへはどうやっていくのか、死んでから行くのか、そういうかたちで浄土のことが問題になっています。
 ですから、これはそのままで、現代の我われにおける「邪定聚の機」、「不定聚の機」の問題です。ただ、今日、問題になりにくいことは「無量寿仏観経の意」、「阿弥陀経の意なり」という仏の教意ということです。
 少なくとも仏陀ということがなければ浄土はどのような形であれ、問題にならなかったということです。私達も、二つの聚と二経との関係には充分注意していかなければならないかと思います。
 ですから、半端な状態に置かれる我らを教化するという意味を表すために、「方便化身土巻」という名がたっているのです。出家者を導かんがために、また在俗のものを導びかんがために仏は浄土を説かれた。導びかんがために説示されたものであるから、方便化身土であるという意味になります。
 これが、標挙の文の意味と考えられます。しかし、現実には、方便化身土と捉えられなくて、それが実体視されているという問題があります。特に、一乗の法として浄土が示され、しかも、幸福でかざられた世界として表現されますから、実体視されて浄土が捉えられます。これは二十願の問題です。
 この問題は原理的には一乗の法として浄土が示された、ということに起因します。つまり、法は既に成就しているのであるから、あとは機に確証されることだけが待たれます。ですからどうしても、機が最大の関心事となります。
 そのことは逆に、法の側である浄土を無条件に肯定することにつながります。私達の教団は特にその傾向が強いといえます。
 その理由は蓮如の『御文』にあるかと考えられます。蓮如にとって、宗教の問題は二十願に尽きると見ていたのでしょう。信と疑が強調される所以です。これらの強調が無条件に浄土を肯定する面につながったため、実体視の問題が残ったままになってきたと考えられます。
 整理して言えば、仏は方便化身として立てられたものであるけれども、衆生の方がそれを実体化し、固定化した。その場合邪定になるのは、もしそういう浄土がないならば、自分の仏道の歩み全部が意味を失ってくる、ですから自分のため、仏道完成のためになければならないものとなって肯定されていきます。
 また、一方の極楽ということでいわれているものは、現世が苛酷であればあるほど、なければならないものとして捉えられますが、はたしてあるかどうかについては確証がない。そういう意味で不定になります。
 ですから邪定のものであれ、不定のものであれ、そういう仏道との関わりを通して問題を展開していくことによって、仏の覚りに至らしめる仏意からでてきているので、その意味で邪定・不定のもとになる『観経』『阿弥陀経』は隠された仏意をもった教説であるから、そこにおいて説示された浄土は「方便化身土」という意味をもつのです。
 たとえで申しますと、『阿弥陀経』の説き方です。最初釈尊が「阿弥陀の浄土と阿弥陀仏はあります」と説かれます。それが終わってから今度は諸仏が「今、釈尊が言われたことは本当である。私が証明します。我われが証明します」と説かれています。普通、「六方段」といわれているものです。
 なぜ諸仏まで出てくるのかという疑問があります。これについて、最も見易い理解は、阿弥陀の法が普遍的であることを示すためということになるでしょうし、教理的に言えば、第十九願の「諸仏称名の願」にこたえられたものとなるでしょうが、釈然としないものが残ります。といいますのは、法の面では整理がつきますが、それが衆生にとってどのような意味があるのか、という衆生の現実に則して考えますと、別の意味がでてまいります。
 それは、衆生の疑いを引きだすためのものであるという理解です。たとえ釈尊がいおうとも、あるいは無量の諸仏たちが「阿弥陀如来はおわします」「阿弥陀の浄土はおわします」といってみても、衆生にとっては、それは疑うより他はありません。
 諸仏まで出すことのうちには仏教においては衆生の疑う心、疑情ということこそが問題であり、しかもその心がかくされており、それをあらわにする意図が隠されています。
 そして、ついに阿弥陀への、また、仏法への疑いは、対象がはっきりしないために起こる疑いというよりは、自分自身への疑いに起因するのだという自覚に導びきます。
 そして、人間は究極的に自己不信を生きるものですから、そういう究極的な自己不信を超えるというところに、仏陀との出遇いというものがあるのだというふうに展開していきます。
 ですから、ここにいう不定聚というのは、疑いがもとになっているために「不定」ということを意味します。そしてそれは、疑ってはならないということではなしに、疑う心というのは一体何を意味するのか、その疑う心によりそいながら、その疑う心を明らかにしていく。そういうことを見事に表したのが善導の深信という言葉です。
 自身を深信する。浄土への疑いではなかった、阿弥陀仏というものへの疑いではなかったのだと。その疑いのもとには、自身への疑いということが根本にある。そういう疑情、疑う心というものの虚偽性と限界性を知って、疑う余地のない自己認識を成就する。このような意義をひきだす仏意をもっているのが『阿弥陀経』ということになります。
 ですから、出家者であれ、在家者であれ、阿弥陀仏および浄土をたてることによって、我われのもつ課題性をひきだし、それを我われに知らしめるあり方をとりながら、我われ自身に仏の覚りを覚らしめる。そのために『観経』の浄土、『阿弥陀経』の浄土というものはたてられているのです。
 その意味で方便化身の土なんです。そういったことを表そうとしたものが、この標挙の意味であるかと思われます。
 この「本巻」には、各巻と同じように最初に自釈が行われております。まず、この化身土ということは一体何を表すのであるかということで、化身・化土についての言葉があります。

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Last modified : 2014/10/30 22:40 by 第12組・澤田見