6、無量寿仏観

 最初のところに、

仏は『無量寿仏観経』の説のごとし (聖典p326

とあります。この経題でございますけれども、普通我われの親しいのは『観無量寿経』という言い方ですけれど、ここには『無量寿仏観経』とあります。
 これは、おそらく善導の『観経疏』によって、こうお書きになられたかと思うのです。ではなぜ『観無量寿経』ではなくて、『無量寿仏観経』であるのか、そこに何か意味があるのかという問題があります。
 ひとつ考えられますことは「観」ということを強調していくなら「無量寿仏観」という言い方の方が適当かと考えられます。多くの観法の一つであって、特に阿弥陀仏でなければならないということはない、という意味になり、聖道門と浄土門との通路という意味をもってきます。
 この『観経』の仏教史上はたした役割を考えれば『無量寿仏観経』という経題は「化身土巻」には最もぴったりしているように考えられます。『観経』は普通、一経二宗というふうにいわれます。
 一つの経典の中に宗とするところが二つある。一つは「観仏三昧」、一つは「念仏三昧」。観仏を宗とし、念仏を宗とする。ここでは特にその観ということを表すために『無量寿仏観経』という言い方になったかと思うのです。
『観経』を拝読なさいますとわかりますように、韋提希が釈尊に対して、「自分は仏力によって阿弥陀仏の国を見ることができた」というところから始まります。
 そして、「仏滅後の衆生はどうしたら見ることができるだろうか」ということで、日想観から、水想観と、浄土の国土を見るにはどうしたらいいのかということで「観」の方法が最初に説かれてきます。
 第六観が終わり、第七観に入るところに空中に無量寿仏があらわれるという表現があります。最初は阿弥陀仏の国土に遇うことができた。その次は仏に遇うことができた。そこであらためて、韋提は自分はやはり仏の力によって阿弥陀仏に遇うことができたけれど、仏滅後の衆生はどうなるのであろうか、ということから、華座観・像観、そして真身観といわれる仏・菩薩の観察の方法が出てまいります。
 この『観経』は、阿弥陀如来ましまし、阿弥陀如来の浄土まします、ということを一番もとにしております。仏および仏の国にどうすれば遇うことができるかということが『観経』の一つのテーマになります。
 聖道門の仏教といいましても、最終的には仏を見ることが目標となりますから、そういう目標を他仏でなくて、無量寿仏観を行ずることによって達成しようというのですから、そういう点で「無量寿仏観」という言い方の方が、よりその意味を表すかと思われます。
 韋提が空中に現れた阿弥陀如来に遇うたということから、後のものはどのようにして、その仏に遇うことができるかということで、仏陀観が展開していきます。この真身観といわれるのは、第九番目の観法です。そうすると、そこに表されております仏は、身の丈がまことに高く、三十二相の姿もまことに大きな仏として表されます。
 なぜそれが真仏でなしに化身になるのか。それは先ほど言いましたように、仏の姿をかたどることを通してしか、私達には仏が考えられません。ですから、先ず仏を大きな姿をもって、我われの前にたてる。
 しかし、それが目的ではなく、我われをして覚らしめるところのものが仏であるという自覚をひらくためにたてるのです。阿含以来、「法を見るものは仏を見るもの」であり、「仏を見るものは法を見るもの」であるといわれておりますように、仏に遇うということが、仏道の目ざすところですから、まずその仏がたてられる。
 しかし立てられているという意味は、示された如くにあるということを表すのではなく、たてることで、仏の意義というものをかえって我われに知らせようとするためにたてられるものです。親鸞は化身土の化身といわれるものは、真身観の仏であるといいます。
 この真身観の仏陀表現は、今日の我われの仏陀の捉え方と関係して考えあわせますと、いかにも我われの仏陀観というのは『観経』に説かれるが如くであって、まことに大きな何物かであって、我らは小さく、劣ったものであり、その私達をその大いなるものが抱きかかえる、それこそ仏であるという理解かと思うのです。
 それは、我われを教化せんがために応化として立てられたのであって、それが仏の実際のありようではないのであることを親鸞は示すために、「真身観の仏これなり」といわれたのかと考えられます。

7、浄土の意味

 次に化身土の「土」です。最初は化身についていわれ、その次が、

土は『観経』の浄土これなり (聖典p326

 どこまでも『無量寿仏観経』が中心になっております。『観経』の浄土といわれるものは、先ほど言いましたように、韋提が光台現国のところで、様々な仏の国土を見せられて、その中から阿弥陀の浄土を見出し、その世界こそ自分が願うところの世界であると。それで、自分は釈迦牟尼仏の力によって、浄土という世界を知ることができた。
 しかし仏滅後の衆生は仏陀の世界というものをどのようにして捉えたらいいか、どのようにして仏陀の世界というものに遇うことができるのかということで、初観から第六観まで、浄土の捉え方というものを表した観法が『観経』に説かれます。
 そこに表されている浄土というのは、金・銀・瑠璃・披瑠・シャコ・赤珠・瑪瑙という七つの宝でできあがっていると表現されていますが、意味するものは仏陀の内容です。
 浄土は見ようによっては、まことに理想的な世界、あるいは考えられる最上の世界として受けとられます。そうしますと、どうしてもそこに、我われの世界は、決してそういう世界ではない、七つの宝といわれるものは全く希少価値であって、誰でも彼でもが触れられるものではありません。ほとんどのものは宝ならざるものを環境としています。
 ですから、私達の環境と違って、浄土という世界は、理想的な世界であると理解します。しかし、自分達の世界は貧しい世界であり、浄土は豊かな世界であるという理解では浄土は我われに何のめざめも与えないことになります。単にそれはあこがれの世界ということになります。
 仏の世界ですから、仏陀の覚りというものをかたどった世界に他なりません。これは『浄土論』『論註』を読むとすぐ気づくことでありますけれど、浄土の世界が我われの世界に似せて、環境の意義をもって表されています。
 このことによって、浄土は我われに深く生きられる場であることを示しているといえます。このことから、浄土の世界が明らかになることで、我われはこの世界に生きられるということがでてきます。
 この我われの住む世界がいかなる世界であるかということを知ってこの世界を生きる。それもただ、漠然と、何となく生きるということでなしに、浄土という世界こそ、我われの本国として、この世に生きるのです。
 この世を捨てて、浄土の世界ということをあこがれていく、そういうことではありません。もっとも深くこの世に生きるために、浄土の世界ということが開かれているということです。
 それはあたかも、釈尊が仏の世界を本国として、この五濁悪世に生きられたと同じような意味において、我われの上にも同じくこの世に生きるという背景が確立することです。ですから、浄土とこの世の関係は二つの世界を比較して、浄土の世界がすばらしいという意味で浄土の世界というものがあるわけではありません。
 しかし普通には、この世の世界と全く離れて別なる世界として浄土ということが考えられております。それが化身土です。

8、懈慢界

 そういう浄土のことが『菩薩処胎経』では懈慢界といわれ、『無量寿経』においては疑城胎宮といわれております。
 懈慢という字は、慢の一つでありまして、覚ってもいないのに覚ったとするというのが懈慢です。ですから、本来それが浄土の世界でもないのにそれを浄土の世界としてたてる、そのたてられた世界が懈慢界になります。
 この『菩薩処胎経』は懐感の『群疑論』に引用され、それを源信が『往生要集』に引いております。まことにおもしろい譬えになっております。
 懈慢界のむこうに浄土があるけれども、その手前のところにみんな止まってしまうという表現です。浄土の世界に遇わないで、その手前の世界を浄土の世界にしてしまう。
 要するに懈慢が壁となることを表します。ここがおしまいだという壁です。では、我われにとって壁というのは何か。そこで考えられることは、我われが普通宗教心といっているものが実は壁になるのではないでしょうか。
 いわゆる「宗教心というものはあった方がよい」というような意味でいわれ、宗教心の上で考えられる世界は、仏教を例にすれば、本来、仏教が明らかにしようとする世界と似ても似つかないものであっても、宗教心のあらわれであるということで、それがそのまま、仏教の世界であるかのようになってしまいます。
 このように、人間の宗教心が真実の前に壁を形成していくという問題がここに懈慢界として表されているかと思うのです。
 では、なぜそうなるのか。なぜ壁が立つのか。「化身土巻」のことでいえば全然別の世界として浄土が考えられてしまうのか。
 この問題を取りあげたのは『大経』においては「智慧段」のところです。つまり転輪聖王の王子が王に対して何か間違いをしたために牢屋につながれる。その牢屋は金銀でできあがった牢屋であって、ただその牢屋にありながら鎖でつながれている。なるほど見れば、金銀でできあがった空間ですから、いうことはないけれども、鎖でつながれている。そういう箇所が『大経』の下巻に出てまいります。
 浄土往生ということについて胎生とか化生ということがあります。そういう問題が『大無量寿経』に提起されており、この「化身土巻」でも重要なこととしてとりあげられています。
 これも何を表しているかというと、仏智疑惑という問題です。どういうことかと言えば、我われが仏ということを考えるけれども、我われが考えた通りに仏があるわけではない。我われは浄土を考える、しかしその考えられた通りに別に浄土があるわけではない。
 いってみれば我われは自らの思惟の枠、認識の枠に合わせていこうとします。けれども、仏陀・浄土はその枠内で捉えられた通りにあるわけではないのです。
 我われの思惟・認識の枠というのは、有を立てれば必ず無が出てきますし、長を立てれば必ず短が出ます。去るということを立てれば来るということが出てきます。我われの思惟・思考というものは、二分法というものによって枠づけられております。
 そういう枠そのものが正しいという保証はどこにもありません。しかし、我われはそういう分別・思惟の二分法の枠をもって、仏を考え、浄土を考えていきます。
 自分達の思惟の枠を信じて、それにあてはまらないものを受け取れない。そういうところに仏智の疑惑という問題があるかと思うのです。

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Last modified : 2014/10/30 22:40 by 第12組・澤田見