6、功徳蔵

 仏陀が福徳蔵と捉えられますから『観経』の中で、親孝行する者、世間的な善をなす者であっても、とりたてて仏教の行をなさなくても、善行をなす者であれば、その者に応じて福を開く、福を与える。それが仏陀の意義である、ということが出てまいります。そうすることで、人々の苦悩に応えようとしたのです。ただ、仏教のたどってきた現実が、仏教の存在する理由すら否定するような現実になっているから、その現実を乗り超えるために、仏陀を「福徳蔵」として表現したのです。そして、その後の「二十願」のところに、今度は「功徳蔵」ということが出てきます。この功徳蔵ということで語られたものが『阿弥陀経』とみられます。

 この「福徳蔵」が、恵まれない者に開かれたものに対して、「功徳蔵」の方は、カのない者にカを与える。『阿弥陀経』にそって言うなら、力のない者に念仏を与えることによって、念仏が功徳の本、徳の本という意味をもって、力のない者にカを与える。そういう意味が仏陀という意味である、と、やはり智徳蔵に対して出てきていると考えられます。ここでも真宗の仏教史観にもとづいて「二十願」のところには「功徳蔵」ということが言われているかと思うのです。

「蔵」という字は、くらという字ですから、恵みであるとか、カであるとか、そういうものがおさまっていることを表します。どこにかというと、仏陀というところにおさまっているのです。それを開く。つまり、仏陀という意義を表そうとするのです。そして具体的に恵みというのはどんなふうに与えるのか。まず、仏がその人の前に現われ出るというのが、一つの仏の恵みなんです。不安、恐れで、右往左往している者の前に、仏自身が現われるということは大きな恵みです。福が与えられることです。それだけでなしに、その人を満ち満ちた世界に導いていく。そういうことで恵みに満ち満ちた世界が極楽世界、阿弥陀の浄土の世界ということで表現されています。そして、その世界にひろく人々を迎えいれようとするところに「福徳蔵」という意味があります。

 福徳蔵というのは仏陀の利他の意義です。その福徳を表すについて、七つの宝でできあがった浄土、極楽と名づけられるような場所、その場がすでに衆生の現前にまできているということで福を表そうとするのです。

 極楽といおうと、阿弥陀の浄土といおうと、それは仏陀の利他の意味を語るのです。そういうものが、実体的に有るとか無いとかいう問題でなしに、仏陀とは何であるかということに応えているものが浄土の表現です。しかし、仏陀は福徳という意味を持っている、恵まれない者に恵みを与えるということがあまり強調されますと、仏陀の意義が不明瞭となって、あたかも人間の欲が満たされるような場所として実体化される危険は十分にあります。しかし、いわんとしていることは、仏陀は恵みを与えるものだと。道を求めて途中まできたけれども、途中で沈んでいく者。全部が分れば恵みが与えられたにも拘わらず、途中でだめになりそうだ、ということであれば、求めたことの全部が無意味になります。恵まれない者です。そういう恵まれない者に仏自らがその人の前に現われ出る。そしてその人を導いていく。

7、十九願の意

 そういう意義を表して仏教の現実が直面している問題に応えようとしたものが『観経』です。そして、そこでどんな行が積まれ、善が積まれたとしても、そのことに応じよう。虚偽という形で終わらせない、そういう恵みを与えるということで、仏陀ということを表そうとしたのが「十九願」の持つ意味であるかと思われます。その意味では『観経』や「十九願」というものは、実に仏教の、釈尊以降の歴史がたどってきた現実、仏教の現実から引き出されてきたものです。

 そういう点では、経典といわれるものは仏教者達の歩みの中で生み出されてきたものにほかなりません。経典は経典自身の歩みを持っているといえます。そういう経典の歩み、求道者の歩みは、ここのところで言えば、「修諸功徳の願」「臨終現前の願」「現前導生の願」「来迎引接の願」「至心発願の願」という、五つの願名で表されます。

 前の四つは、親鸞以前までに言われてきたものです。それに対して一番最後の「至心発願の願」という言い方は親鸞が初めて言った願名です。これまで言われてきた願名を紹介して、自分はこう言うのだという意味でお書きになったのではないと思います。そこに歩みがあるはずです。求道者の歩みというものがあるはずです。多くの願の中から、中国・日本の求道者達がまずこの願に注目してきた。しかし、注目しただけでは残りませんから、それを目標にし、他の人々と共に歩むということがあったに違いありません。そういう求道の歩みをこれらの願名が表しているかと思います。願名については後で触れます。

 さて、一度触れておかなければならない問題は、「すでにして願有ます」とか「すでにして悲願有ます」という表現についてです。「真仏土巻」においては、「すでにして願います」。「化身土巻」では、二回にわたって「すでにして悲願います」という言い方になっています。

 こういう「願」について言われる表現は、「行巻」にしても、「信巻」にしても、「証巻」にしても、みな「願より出でたり」という表現です。大行とか大信とか、あるいは覚りというのは、みな何々の願より出たという表現です。しかし、「真仏土巻」と「化身土巻」においては「すでにして……います」という言い方です。そうすると、なぜ他のところは「より出でたり」で、「真仏土巻」「化身土巻」は「願います」なのか。それも「真仏土巻」は「悲」がなくて「願います」で、「化身土巻」は「悲願います」なのか。これによって親鸞は、何を語ろうとしたか、という問題です。

8、光寿二無量

「真仏土巻」は、一番最初のところに、

 すでにして願います、すなわち光明・寿命の願これなり。(聖典p300

という言い方で出てきます。この「光明・寿命の願」というのは、何を表しているものか。これは、慧遠の『大無量寿経』の願文の受けとめの中においては、「摂法身の願」といわれてきたものです。仏が仏自身を成就するために建てられたところの願であると。しかし、親鸞はそのことを、真仏土の願として捉えなおしたんです。

「光明無量」というのは、空間に関係する概念です。「寿命無量」というのは、時間に関しての概念です。いずれも「無量」ということでいわれてきます。そして、そのきっかけとなったのが釈尊です。

 釈尊は、八〇年という時間を生きられた。そして、教化された場所も限られている。しかも、そこに仏陀と名告っている人がいても、他の者となんら変わらないために、みな無視して通っていく。特に、覚りを開かれたというありさまを伝える仏伝をみますと、疲れ果てていたという様子です。草の上にへたばっているようにしか見えない。そうすると、汚い男が草の上に座りこんでいる。腹でもへったのかと、みな通りすぎていく。その男が仏陀であるとは分らないという問題があります。それでは仏陀の教化力というのは、話してみなければ分らないということになります。話して通じないと分らないとなりますと、仏の教化カというものは非常に狭いものになります。

 光明ということで表されるのが教化です。仏の教化が及ぶ範囲というのがまことに小さいということであれば、仏に遇うことのできる者は、はんのわずかです。あらゆる衆生が覚るべき覚りを、仏陀は覚ったと言っているにも拘わらず、その教化の範囲がまことに小さいものであるなら、仏陀という意味はまっとうしえないであろう。そこで、仏陀というものを表すために、「光明無量」といわれてきたのです。十方、どこの場所にいたとしても、どういう環境に生まれ、生きていたとしても、どこにおいても仏と遇いえるのだと。仏の教化を受けうるのである。そういう仏であろうということで「光明無量」ということが出てきたかと思うんです。

 それに対して寿命というのは、時間に関係してきます。釈尊は八〇年の生涯を終えられた。そうすると、仏出世以前に生まれた者、仏滅後に生まれた者は、仏と遇いえないということになってきます。ですから、衆生がいつ生まれようが、釈尊以降、遠く隔たって生まれようが、仏と遇いえるという意味を成就するために「寿命無量」ということがいわれてきたのです。

 光明・寿命ということで、時間・空間を尽す、これこそ仏陀ということの意味です。しかし現実には、仏陀とは釈尊のことだということになったのです。仏陀というのは釈尊のことだということになれば、釈尊のようにならなければ仏陀となれないことになってきます。そして、その釈尊が「智徳蔵」ということで捉えられてきますと、あんなふうにならなければ仏陀になれないのだとすると、はとんどの者が道半ばになるということになってきます。そういうことでは、仏陀ということにとっては、大変不本意だということで、『教行信証』では「教巻」というものがおかれ、仏陀の本意ということを表すのです。

9、釈尊の本意

 仏陀ということが、釈尊として捉えられていった仏教の歴史というのは、まことに不本意であった。仏陀というのは釈尊のことではない。決して釈尊は、自らこの釈尊に帰命しなおしなさい、もう一度釈尊の方に戻りなさいとはいわれておりません。阿弥陀仏に帰命せよ、彼の如来に帰命しなさい、阿弥陀如来の方に眼を向けなさいと勧められた。それを表そうとして『大無量寿経』をお説きになられた。それによって釈尊は、仏陀の本意ということを明らかにしようとされた。しかし現実は、仏陀とは釈尊のことだと捉えられていったために、まことに不本意に終わった。その本意を回復するために『大無量寿経』が説かれたんだと、親鸞はみられたかと思います。

 なぜ「願います」という言い方になったのかと言いますと、仏陀といわれるものは、光明無量・寿命無量という意味を持ってあるものである。それがあるからこそ、仏教ということは成立するのである。仏教はどこから起こるのか。それは、光明無量・寿命無量という意味を持つ「仏陀おわします」、ということから起こるのです。

 そういう点では、「すでに」「すでにして」という表現は、釈尊以前にさかのぼるという意味が出てきます。釈尊が仏教の出発ではないということです。仏教の歴史は、釈尊を智徳蔵のものとして、仏陀ということを捉えてきた。しかし、それはすべてではなく、釈尊にさかのぼって、釈尊を超えて、光明無量・寿命無量という意味を持った仏はあるのだと。そして、決して、この世と混乱しない、我われの分別のとどかない、一線を画した世界があるのだと、それを表そうとするなら、「仏土」ということで表さなければならないというのが「真仏土巻」にある「すでに」という意味であろうと思います。ここが根拠になるのです。仏教はここから始まる。釈尊から始まるのではない、ということで、「すでに」という言葉が使われているかと思うんです。

「化身土巻」のことでいえば、仏陀というのは智徳蔵ということだけで考えられるものではない。仏陀は、もともと、それだけで尽されるものではない。そういう点で、「もともと」という意味を持っているのが「すでに」という言葉かと考えられます。これは仏陀の利他性に関係します。そして、なぜ「悲願」なのか。「真仏土巻」は、単に「願」です。「化身土巻」は「悲願」になっています。それは一つは、恵まれない者に対して恵みを与える。この意味は、文字通り慈悲ということを表しますから、福徳蔵という意味からいって、悲という意味が出てきます。

 それともう一つは、方便という意味で悲といわれているかと思います。仏陀は福徳蔵ということだけにとどまるものではない。しかし、仏教の歴史の現実がぶつかっている情況を乗り越えんがために、福徳蔵と表されたのである。しかし、そこだけにとどまるものではない。もし、福徳蔵だけにとどまるならば、宗教一般と同化し、迷信化してしまう危険性を持ちます。そうかといって、全部を表したんでは混乱するだけである。まず、この現実を乗り越えるということに重点がおかれて、全体ではないけれども、まずそう言わなければならないのだ、という意味で方便という意味があって、「悲願」という言葉になってきているかと思います。

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Last modified : 2014/10/30 23:00 by 第12組・澤田見