10、三経一論

 以上、最初の自釈の部分の概略を申しあげました。親鸞は、この「化身土巻」ということで展開しようとしたものは、まず仏教の歴史ということが絶えず念頭におかれて、そしてその時代と求道者達とが形成する仏教の歴史が、その歴史自身を展開していく歩みの中で、聖道・浄土の二門の自覚的な分岐点となるものとして『観経』『阿弥陀経』を見出したといえます。

 従来から浄土真宗においては、その依りどころとなるのは、「三経一論」であるといわれてきました。これは、法然上人が『選択集』で言われたことです。この三経を、より具体的に、正確に考えますと、中国における翻訳が一番早いものは、『大無量寿経』です。今、我われが正依の経典として用いています魏訳の『大経』、康僧鎧が翻訳したのは、252年と言われます。そして、鳩摩羅什によって翻訳された『阿弥陀経』は402年頃です。そして、疆良耶舎が翻訳した『観経』は420年から450年の間と言われております。

 翻訳年次も、翻訳者も、翻訳された場所も、まったくバラバラです。それがどういう経緯をたどって、後々、浄土の三部経となってきたか、ということを考えますと、仏教者の、求道者の歩みということをぬきにしては考えられないことです。経典は、翻訳されたからあるという性質のものではなくして、それを見つけ出し、それを保ち、それを伝えた、ということで、現在この世にあるものと考えられます。

 翻訳年次も、翻訳者も、翻訳場所も違うものが、浄土の三部経として考えられるについては、やはり当然歩みがあります。この三つの経典を同時に用いて考えられたのが曇鸞です。

 曇鸞の『浄土論註』の中に、この三経が用いられています。『大無量寿経』は、すでに『浄土論』が『大無量寿経』の註釈書ですから、当然始めから問題になっています。そして、八番の問答といわれる『浄土論註』の上巻の一番最後のところに『観無量寿経』が用いられています。そして『阿弥陀経』については、「尽十万無碍」ということを註釈されるときに、上巻の始めの方で用いられています。

 曇鸞は、これらの三経を偶然手に入れたのか。これはもう、推測するよりはかないわけですが、曇鸞の伝記によれば、菩提流支から『観無量寿経』というものを授けられた。曇鸞は476年生まれだといわれます。ですから、浄土の三経はことごとく翻訳された時代に生まれられたのです。それ以前に生まれた方は、『大経』は知っているけれども『阿弥陀経』は知らない。300年代の人は皆そうです。もちろん『観経』という存在も知りません。

 それでは、浄土の三部経ということができあがってくるのは、まことに奇蹟的なことです。どうしてそんな経典に出遇ったのか。そう考えていきますと、求道者たちが翻訳された経典を見ることで、この経典こそはということで感動して受けとめ、それを他に伝えた。『阿弥陀経』なら『阿弥陀経』といわれる経典を、ずっと相続してきた集団が考えられます。そして、『観経』を相続してきた集団、『大経』を相続してきた集団、そういった人たちとの出遇いによって、曇鸞のところに三経が集まったということが考えられます。その後、三経として伝えられていくわけですが、この三つの経典に独特の意味を見出したのは、やはり親鸞といわなければなりません。

『浄土三経往生文類』という親鸞の著作もありますが、『愚禿紗』にも、この三経がとりあげられています。それを見ますと、この三つの経典は、ことごとく選択されているという意味を持つものと捉えられています。もちろんこの「選択」という意味を、明らかにされた方は法然でありますけれども、その法然の選択という意味をうけて、親鸞は、その経典のところにまで選択という意味をみてきたのです。

 それによって明らかにされていることは、一つは、機の選びです。機ということが選ばれている。特に、仏滅後の衆生ということが問題となって、特に選ばれた経典である。親鸞によれば、たくさんある経典の中の三つ、という意味ではなく、特に、従来の仏教の中から外れている存在、そういう存在を選んで、その存在のところに仏の覚りが開かれるということを言おうとしたのが浄土の三経である、と。そういう意味で選択という意味をもっている。もう一つは、従来の仏教という枠から選んでという、教えの面において選択という意味がある。そういう、機と法のうえにおいて、選択の意味をもつものとして、親鸞はこの三部経を見られたかと思います。

11、修諸功徳の願

 求道者の歩みというものが、浄土の三経というものを見出してきた。そういう求道者の歩みが、経典の中に意義を見出し、その意義を表す言葉というものを出してきた。それが「修諸功徳の願」から始まって、「至心発願の願」といわれる願名となって現われてきたといえます。

「修諸功徳の願」という願名は、これは願文自身にある言葉からとられたものです。それと、「臨終現前」も、願文の中にある字です。「現前導生」とか、「来迎引接」という言い方は、『観経』から趣意をとってつけられた名であるかと思われます。最後の「至心発願」は、これは親鸞自身が名づけたものですが、願文から直接とられたものです。このように、いくつかの名があがっているというところに、仏教者自身の仏教への認識、捉え方というものが出てきているかと考えられます。

「修諸功徳の願」と、こういった時には、どこまでも諸々の功徳を修していくことを仏教の中心として捉えているのです。功徳を修することを中心としていきますと、仏陀はどうしても理となり、それを証することになりますので、智恵を極めていく方向になります。ただ、違いますことは、そういう功徳を修すということに応えて、仏が恵みを与えるという点です。しかし、仏が恵みを与えて当然と考えられるまでどこまでも功徳を修していく、行に専念するということが中心です。この理解が成立するためには、やはり仏陀は利他性を表す福徳蔵と考えられていなければなりません。そういう捉え方が、この願名によって考えられるかと思います。

12、現前と来迎

「臨終現前」と「現前導生」、「来迎引接」というのは、先の「修諸功徳」と比べますと、むしろ仏の福徳ということを強調するものです。仏陀は我われに恵みを与える。その与え方が、臨終の時に我われの前に現われて、我われを導く。先に「修諸功徳」のところで申しましたが、仏が恵みを与えて当然というところまで行ずるといった場合、その努力の終わるところは「臨終」と言わなければなりません。ですから、ただ臨終を待つのではないのです。臨終に至るまでの努力があって、はじめて出てくるのです。そして、それは現われるというよりは、仏は我われを迎えにくるまでになります。そういうように、仏陀の福徳蔵ということが強調されている願名です。ですから、ここには仏教者自身の歩みがあるのです。ここで「現前」と「来迎」の相違について少し触れますと、現前と来迎との間には思想史的にも大きな距離があります。「現前」は『八千頌般若経』『般舟三昧経』等に見られるもので、観仏に力点が置かれています。これに対して「来迎」は時・機に力点が置かれて出てくる思想と考えられます。どこまでも、仏道の本流である功徳を修していく、ということを中心にする。それに応じて仏がそれに応える。これが「現前」の意味です。それが時・機の面から仏は我われを迎えにくるというところに仏陀の意義があり、仏陀はもともと我われに恵みを与えるものとしてあるのだという捉え方に変わってきます。これが「来迎」です。

 これに対して、親鸞の「至心発願の願」という捉え方は、どういう領域にはいるのであろうか。福徳蔵の方を強調する捉え方か、智徳蔵の方を強調する捉え方なのか。これは、いずれにも入らない、という意味があるかと思うのです。親鸞自身は、至心発願ということを、「信」という意味で使います。智徳蔵を中心にして考えられる仏教と、福徳蔵こそが仏陀の意味だというように捉えられる仏教、その問を繋いでいるものが「至心発願」という信なのでしょう。と言いますのは、修諸功徳に専念してきた仏教者達が、死と時代情況との二面から、仏陀の福徳として浄土の往生を願う者達となってきたという事情が考えられるからです。もし、至心発願して浄土の往生を願うことがないとすれば、死とともに修諸功徳が消滅する。それは自己自身の人生の消滅を意味します。それを乗り超えようとするならば、浄土往生を願わざるをえない。しかし、その往生が確定するためには、修諸功徳が十分に積まれていなければならない。ここに二種の信が出てまいります。一つには、自らのなした修諸功徳への信頼と、それに応えてくれるであろう福徳蔵としての仏陀への信頼です。ここを捉えて、親鸞は「至心発願の願」と言い、その内容は「信」だと言われたのでしょう。そうしますと、その信頼は、内容からいけば、期待する、祈るという内容をもった信にならざるをえない。ですから、そういう信は当然仏智疑惑に結びつくのです。

 仏陀を福徳蔵として捉えていく場合に、その信頼は人間の期待とどう違うのか。仏陀は恵みを与えるものだという意味で福徳蔵ということがいわれますが、そういう恵みが、どういう恵みとしてあるのか。そして果たして、その恵みが我われのところに恵まれてくるのか。そういうことになると、我われの予想と期待というより他はないではないか。そこに、その予想と期待とを根拠づけるものとして行があるのです。

 智徳蔵ということからいけば、道半ばになる。それは結局、わからないことと何ら変わらないことになる。もしそういうことであるなら、求めたことが意味を失うではないか。そういう理由から、仏陀が福徳であることを信ずる。そして、仏陀が福徳であるという信頼の内容は、我われが予想し、期待することが内容になってくる。

 この事情はよく分るけれども、そういう事情が、果たして仏陀ということに結びつくのか。人情としては分るけれども、人情は必ずしも仏法ではない。そこに至心に発願する。しかし、その発願の内容は、期待や予想があり、そしてその予想や期待のもとに事情がある。その事情を追求したところが、果たして仏陀ということにつながるのか、ということが問題となってきた。そういう意味で親鸞の場合は、智徳蔵にも福徳蔵の方にも立たずに、それが智徳から福徳の方へ展開する時に遭遇する、経験する、人間の宗教心という側面を捉えて「至心発願の願」という言い方をされたかと思います。

13、信仏因縁

 この信の問題は、次のこととしてあると思います。曇鸞の言葉に、「信仏因縁」という言葉があります。仏を信ずるには因縁があるということです。我われが仏を信ずる因縁といった場合、よく言われることでは、人生に挫折したとか、生命の危機にぶつかったとか、言ってみれば異常体験です。そういう異常な経験が因縁になって仏を信ずるというような心が起こってくるという理解をする場合があります。しかし、異常体験というのは、これは縁ではあっても、因ではないのです。

 曇鸞が言おうとしたのは、仏を信ずる因というのは、仏より起こることであって、我われの方から起こることではない。我われには、縁はあるであろう。しかし、縁がそのまま因になるということはない。特に曇鸞には、阿弥陀如来を増上縁とするという言葉があります。如来を主とする。増上という意味は、増、上と書きまして、何々を主とする、頭とするという意味です。阿弥陀如来を因として、我われに仏を信ずることが生じ、その結果、正定聚に住するというのが曇鸞の言わんとするところです。

 そういう意味では、今日でははとんど消えてしまった言葉ですが、「平生業成」という言葉があります。平生に業が成ずる。平生ですから、寝て、起きて、食べて、働いて、という日常的な生活です。例えば、誰かが肝臓を悪くして入院したといいますと、あいつ、平生業成、酒ばかり飲んでいるから、という使い方です。だから、晩酌している人はみな、平生から飲んで、その結果肝臓を悪くしたとなります。これは俗な言い方の例ですが、本来はそういう意味ではありません。業が違うわけです。平生業成の業というのは、往生の業という意味で蓮如は使ったわけです。平生に往生の業が成就する。

 しかし、今日、宗教に関心を持つという時は、平生に持つわけではありません。例えば、厄年というのは、これは毎年あるわけではない。ですからこれは平生ではありません。人間の年令の中でも、異常な年令とします。そんなことをきっかけに、ちょつと拝んでもらわなければというようなことが出てきます。また、何か異常と思われる出来事があると、これは何か鎮めなければならない、ということで宗教に関心を持つ。異常時に、宗教への関心を持つわけです。異常な出来事が縁になっているわけです。しかしそれは、どれだけ異常な縁があったからといっても、如来を信ずるというようなことが起こるわけではない。因にならないと曇鸞のこの言葉は教えています。

 曇鸞は、自分が『論註』で明らかにしようとするものは、難行に対して易行である、と言います。その易行とはいかなることか、と言うと、信仏の因縁をもって仏の世界に出ることである。その場合、仏を信ずるということが、異常なことをきっかけとして、信ずるということは起こらない。それは事情をいっているのであって、たとえどれほど必死の思いであっても、事情からは信ずるということは起こらない。信ずるには、信ずるという理由がある。それは、仏自身のところに理由がある。我われの方には事情があるだけです。事情と理由がすれ違うわけです。くい違ってきます。そのくい違いが、仏智の疑惑ということになっていきます。そして、我われの浄土の捉え方を、疑城胎宮にするのも、事情をもって仏教を考えるからである。我われ自身の事情から、仏教ということを、浄土ということを予想し、期待するから、疑城胎宮ということが起こってくる。事情と理由とは逢う。こういう問題をはらんでいるのが、「至心発願」といわれるものです。ですから、今までの願名に新たな名を付加したということではありません。

 求道者達をとりまく情況から仏陀が福徳蔵として捉えられてきたが、そこに隠れている問題を引き出す意味でこの「至心発願の願」という願名がたてられたと見ることができます。これによって、この「十九の願」、あるいは『観経』といわれるものは、我われの何を明らかにしようとされたのか。それをはっきりしていく。そのことの手掛りになっているものが、この「至心発願」という言葉です。親鸞は、そういう意味で、

「至心発願の願」と名づくべきなり(聖典p327

と言われた。それまでは「名づく」ときて、最後は「名づくべきなり」です。なぜ、「名づく」でもいいはずなのに、「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形ですが、それを用いてなぜ「名づくべきなり」と使わなければならないのか。「名づくべきなり」という表現から「至心発願の願」と名づけるのが事態を表すに適当である。あるいは当然そう言わなければならないという意味になります。これは、従来からの捉え方では、その意義が十分に明らかにならない。だからここは、こう名づけた方が適切であり、適当であるという意味になるでしょう。もっと強くいえばこれまでの歩みを受けながら、その歩み自身が持っている問題を明らかにしようとするなら、それはこう名づけなければならない。「十九の願」が建てられた理由、『観経』が説かれた理由というものを明らかにしようとするなら、これは「至心発願の願」と名づけなければならない。こういう意味になってくるかと思います。

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Last modified : 2014/10/30 23:00 by 第12組・澤田見