14、悲華経

 ここで最初の自釈が終わりまして、福徳蔵ということを表すのに『大経』の「第十九願」と『悲華経』の願文とが引用されます。

 この第十九願は、前も触れましたように、特異な願です。普通、仏道といえば菩提心を発し、功徳を修して仏果に至ることです。ところがこの願ではさらに、至心発願して阿弥陀仏の浄土に生まれんと欲するという、違う仏道が示されています。方向が違う仏道が、あたかも一つの仏道であるかのように示されているところに、この願の特異性があります。自力を尽すことを条件として、仏陀は恵みを与えるという願意です。しかし、これは自力を尽そうとする者にとっては福音です。ですから、この願意そのものが福徳蔵を意味します。

 そして『悲華経』が引かれます。この『悲華経』は、親鸞は「行巻」の始めの方にも引きます。親鸞は、どう間違ったのか、もちろん『悲華経』に「大施品」というのはあるんですけど、「大施品」にこの文があるわけではありません。『悲華経』の「諸菩薩本授記品」といわれるところの始めに、『大経』に出てきます四十八願にあたる部分があります。これは、「大施品」ではありません。

 その『悲華経』といわれる経典は、北涼の曇無讖の翻訳ですので430年頃までに訳されております。この『悲華経』が注目されますのは、『大経』は四十八願、『悲華経』では五十願になっていますが、願の内容がほとんど同じです。ただ、『悲華経』では、法蔵菩薩が願を起こしたことにはなっていなくて、無諍念王という転輪聖王が願を起こしたとなっています。『悲華経』の存在は、漢訳だけでなく、サンスクリット本もチベット本にも現存しています。

『大経』の十四の願のところに「声聞無数」といわれる願があります。これに対して『浄土論』の「願生偈」では二乗の種は生じないということがいわれます。つまり、浄土には声聞はいない。いるのはみな菩薩である、と。そして、この「菩薩無数の願」といわれるものが『悲華経』の中にあります。そうしますと、これは推察ですけれども、天親の『浄土論』というのは、『大経』ばかりでなしに『悲華経』のほうも見ていらっしやつたのではないかと思います。

『悲華経』は、『教行信証』に二回引かれます。この『悲華経』の中の四六番目の願、

願わくは我阿耨多羅三藐三菩提を成り已らんに、(聖典p327

という、このところです。

 なぜこの『悲華経』を親鸞は引用するのか。『大経』だけでなく、なぜ『悲華経』なのか。『悲華経』でなくても、まだ他に『大経』の意訳があります。『大阿弥陀経』であるとか、『平等覚経』であるとか、そういうものを引用しないで『悲華経』を引用します。我われが手にしている康僧鎧訳の『大経』は、非常に整理されたものです。他の意訳は、非常に分りにくい。翻訳がまずいわけです。それだけに、細工されない原形のようなものが感ぜられます。

 親鸞が、他のものを引かず『悲華経』を引かれたのは、十九の願というものがもっている意味を、もっともよく表していると考えられたから、浄土教ということから言えば傍経にあたる『悲華経』というものを引かれたと考えられます。法然はこの『悲華経』を知っており、「大経釈」の中で引用されます。ですから、親鸞も法然からこの『悲華経』の存在を知られたと考えられますが、それだけでは引用する理由にはなりません。そこで次のようなことが考えられます。浄土の三部経といわれる以外の経典の中で、仏を福徳蔵と捉えている経典がある。始めから浄土ということを問題にしている経典が、臨終の時になって仏の迎えが来て、その浄土に生まれるということを言うのであれば、とりたてて不思議ではないけれども、必ずしも浄土の往生ということをテーマにしているわけではない経典の中に、仏が衆生の前に現前してくるということが出てくる。

 仏教者の現実からいけば、自分の求めたことが完成されないままで、途中で終わるということの持つ問題は、浄土を問題にする経典だからということであるのではなく、つまり浄土教固有の問題ではなく、仏教者にとってまぬがれることのできない普遍的な問題である。そういった意味を表しているのが、『悲華経』であるということでここの引用になっていると考えられます。

15、三輩・九品

 次に、『教行信証』の形式がいつでもそうでありますように、願文が出されたあとに願成就文が出されます。これは、『浄土文類聚鈔』との違いです。『浄土文類聚鈔』は、願成就文を出します。『教行信証』では、願文と願成就文の形式になっています。ここでは、直接願成就の文はあげられずに、

この願成就の文は、すなわち三輩の文これなり。『観経』の定散九品の文これなり。(聖典p327

三輩の文は、『大経』下巻の始めの方にあります。上輩、中輩、下輩は、仏を智徳蔵ということで、そのことを目標として修行している者で、かなり進んでいるもの、ほとんど中途であるもの、出発して間のないもの、そういう修行のありようから上・中・下というわけ方をしています。そして、そのいずれもが仏の恵みを得る。上なるものだけが仏の恵みを得るのであれば、これはある意味で当然といわなければなりません。しかし、下なるものも仏の恵みを得るのである。

『観経』にいたっては、もっと詳しくあって、わずかな善でも行でも積むものであるなら、仏の恵みをうけるということは分る。しかし、十悪五逆をなしてきたものが仏の恵みをうける。そういうことを表すのが『観経』の九品です。上・中・下、ことごとく。我われの判断からでは、まったく恵みをうけるにふさわしいとは考えられない、そういう存在のところに仏の恵みというものがいたるのである。そういうことを表したのが『観経』の下品の表現です。そのことによって、上・中・下とも、九品ともにその恵みをうけるということを表すものが『大経』『観経』の一面の意味です。それは、福徳蔵というものを表されたという意味になる。仏の恵みから遠いもの、いまだ得ることのできないもの、まったく無縁だと考えているもの、それらのすべてに、仏の恵みはいたるのである。そういう意味をもって説かれたものが『観経』であり、それを原理的に基礎ずけているのが十九の願である。

 そういう仏の恵みをうけるというようなことが出てくるについては、釈尊以降の仏道の歩みということがある。この仏道の歩みが、仏陀に福徳蔵という意義を引き出してきた。突然出てきたのではなく、仏道の歩み自身が、仏の恵みという面を引き出してきた。しかしそれは、基づくところは、すでにそういう意味があるのだと。なぜなら、仏は光明無量・寿命無量という意味をもつものであるからである。これが「すでにして悲願います」の意味です。

 それが仏教の歴史においては、智徳蔵とのみ考えられてきた。そういう歩みが、今度、福徳蔵ということを開いてきたのである。しかし仏陀は、すでにして光明無量・寿命無量としておわしますのである。そういったことを述べようとしているのが「化身土巻」の最初になるかと思います。

(1988・1・19)

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Last modified : 2014/10/30 23:00 by 第12組・澤田見