3、願成就

 以上のように願文が引かれまして、次に、

この願成就の文は、すなわち三輩の文これなり。『観経』の定散九品の文これなり。(聖典p327

となっています。この「願成就」という言葉ですが、成就ということは、文字通り現実となっているということを表す言葉です。つまり、おおよそ仏の覚りというものを求め歩くものは、臨終ということがあるために阿弥陀の浄土への往生ということを願わずにはおれないのである。そういう現実が三輩という言葉で、その内容が表されます。

 三輩の文は、『大無量寿経』の下巻に出てくるものです。上・中・下の三つありますから、区別がたっているわけです。上輩の者は、無量の善根を植えていて臨終の時に仏を見奉る。中輩の者は、少善根を植えていて真仏ではなく、化身の仏を見る。下輩の者は、善根を植えるということはないけれども、阿彌陀仏を念ずること十念に及んで、そして夢のうちに仏を見る。

 この、無量の善根を植えるというように言われる上輩の者は、おそらく出家の仏教者達で、中輩の少善根を植える者は、在家の仏教者達で、下輩の者は、とりたてて善もなすことができない、業縁の凡夫人にあたるような人達と考えられます。これによって、仏教に関わるという場合に、出家して関わるか、在家において関わるか、あるいは、在家において関わる場合でも、積極的ではなく、たまたま教えを聞いて関わりをもつ場合という、そのいずれかです。ですから、三輩の文ということで、仏教に関わるすべての者のことを言い表そうとしたかと思います。

『観経』に出てきます定散九品の場合には、もっと細かに分類されています。それというのも、やはり仏教に関わるすべての者を言いあてようとするからです。それによって大乗の仏教であることを証明するのです。仏教に関わるすべての者は、臨終ということをまぬがれるものはない。そのために、必ずや浄土の往生ということを願わずにはおれない。それが現実となっている。そういう意味で「願成就」という字が使われているかと思います。単に、『大経』の上巻で言われたことが、下巻の方に同じく出てきて、上巻がその因を表し、下巻が果を表す。そういう、経典のうえだけでの因と成就のことでなく、親鸞が願成就ということにこだわられる場合は、「それが現実となっている」ということを表すためかと思います。

 そして、三輩の文も、『観経』の九品も、何が基準になっているかというと、釈尊が基準になっています。その行業が釈尊に近い者が上で、遠い者が下です。釈尊を基準として、仏教者の在り方というものが分類されています。そして、そのいずれの者も、仏陀の覚りというものを自分自身に明らかにしようとした場合、浄土の往生ということを願わずにはおれないのである。その最大の理由が、我われが死をまぬがれ得ない存在であるということです。このことから浄土の往生ということが我われにとって必然的な理由になってくるかと考えられます。そして、同時に考えなければならないことは、三輩・九品に臨終が強調されていることはそのままで、頓教が毀滅していることを意味し、すべてが漸教であり、万劫を経ても仏果が証し難い時・機にあることを表すということです。

4、慈悲方便

 しかし、我われの時・機にとって必然的な理由だからといって、浄土の往生が我われの必然に応えているものなのか、どうなのかという問題があります。別な言い方をしますと、浄土が建立された理由というのは、我われが死すべき存在であり、求めたことが途中で終わる、万劫を経ても無生を証すことができない存在であるから、浄土ということが建てられたのであるかということです。すると、そこにズレが生じます。つまり、浄土建立の意義ということと、我われが浄土の往生を願うということとの問にズレがあるということです。そのズレを明らかにしようとして、「また『大経』に言わく」から『往生要集』までの引用がなされているかと考えられます。「『大経』に言わく」というて、『大無量寿経』の上巻のところの文が引かれます。そして、親鸞の引かれた『大経』の文は、これとほとんど同じところが『浄土和讃』に、

七宝講堂道場樹
 方便化身の浄土なり
 十方来生きわもなし
 講堂道場礼すべし (聖典p481

あるいは、

神力本願及満足
 明了堅固究竟願
 慈悲方便不思議なり
 真無量を帰命せよ (聖典p482

とあります。これは、

明了願のゆえに、堅固願のゆえに、究竟願のゆえなり。(聖典p36

という『大経』の言葉を、親鸞は『和讃』で表したものです。

 この二つの和讃のところで「方便化身の浄土」、「慈悲方便不思議なり」というように「方便」という字が使われます。そうしますと、「無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり」から引かれています『大経』の引文は、広い意味で方便ということを言おうとしている文章です。親鸞の言葉でいえば、慈悲方便です。つまり、如来の慈悲というものがかたどられた。我われ衆生が分るような、我われ衆生が求めるような気持ちになるように、慈悲というものがかたどられた。したがって、そういったことが実体としてあるわけではない、ということを「方便」の言葉で言おうとします。

5、仏の覚り

 最初に出てきます、「道場樹は、高さ四百万里」の「道場樹」という言葉は、釈尊の覚りを表す言葉です。ですから、「道場樹」ということで仏陀の覚りが表されます。その仏陀の覚りを表す「道場樹」というのが、まことに高い。高いということで表す事柄は、どこにいようと、仏陀からどれはど遠く離れていようと、仏の覚りというものに遇うことができる、という意味です。「道場樹」の間近にいようと、遠く離れていようと、どの場所に位置していようと、仏の覚りというものに遇うことができる。そういう意味では、この浄土ということは、誰にとっても遇うことのできるものという意味になり、それによって一乗を表します。浄土をもって一乗を表す。そして途中で経文が「乃至」されます。「乃至」以下のところから別のことを親鸞は言おうとします。

この樹を見るものは三法忍を得ん。(聖典p327

ということで、音響忍、柔順忍・無生法忍の三忍が説かれています。

 これは、浄土に生まれるということは、目覚めるということである。したがって、浄土というのは、仏陀の智恵というものを表している、仏陀の智恵をかたどっているのが浄土なのだという意味になります。決して、何かの準備のためにいくような場所でもなければ、我われの希望がかなうような場所でもない。浄土は、仏陀の智恵をかたどり、したがって、浄土に生まれるということは、我われにとって仏陀の目覚めを得ることを表す。そしてそこに智恵ということを見ることができるなら、先の「道場樹」がまことに高いという表現は、どういうものも、どこに居ろうと、仏の覚りに遇うことができるという意味になりますから、これは慈悲を表す。こういう点で、浄土とは智恵と慈悲というものがかたどられた世界であることが示されます。そしてここでも「乃至」されます。

6、浄土の依報

 親鸞が乃至していく場合は、言おうとする一つのことがそこで言い表され、別の事を言い表そうとする場合か、あるいは、言おうとすることを一貫するためにか、いずれかです。そしてそのためにその中間が省略されます。そういう点では、非常に読みづらいのです。乃至する理由があるわけですが、その理由が、読んでいる我われにはなかなか分りがたいわけです。

「乃至」されまして、

講堂、精舎、宮殿、楼観みな七宝をもって荘厳し、自然に化成せり。また真珠・明月摩尼・衆宝をもって、もって交露とす。その上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。(聖典p328

とあります。講堂、精舎、宮殿、楼観、そして浴池という水も出てまいります。つまり浄土は、智恵と慈悲をかたどったものですが、その智恵・慈悲が私達にとってどのような意味をもつのかを具体的に示すために、環境となることが示されます。講堂、精舎、宮殿、楼観というのは、我われの生活を指します。浴池ということでは、自然の環境を指します。

 浄土の往生ということは、仏の智恵、慈悲というものに単に目覚めたということではない。そこに生活ということが起こってくる。そういう点で、浄土は我われにとって環境という意味をもってくる。環境という意味は、受け入れられ、そして受け入れられて我われを生かしていく、育んでいくという意味が、その環境というなかにあります。そういった意味を表すのに、あたかも実体的にあるような形で説いているのです。説いているからといって、そんなものが実体的に考えられることではなく、そのことによって表そうとしたものがあるということです。

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Last modified : 2014/10/30 23:18 by 第12組・澤田見