7、帰命・往生

 さきほどの『和讃』を見てみますと、「帰命せよ」とか、「礼すべし」という言い方になっています。浄土ということで、有るとか無いとか、あるいは人間の理想を表すのかどうか、あるいは別々の意味を表すのだというような理解はもちますけれども、「帰命する」とか「礼する」というような感覚は、私どもにはありません。親鸞の、講堂道場礼すべし(聖典p481)真無量を帰命せよ(聖典p482)という表現は、そのことによって意味されるものは、浄土に往生するということは仏に帰命するということと同じ意味である。仏に帰命するということが往生ということを表すのであるということです

 そうしますと、先に言いましたズレが出てきます。道を求めても、仏の覚りが得られる前に死ぬということが起こる。それを何とか乗り越えたいということで浄土の往生を願う。浄土の往生ということを果たしとげて、それから目指すところの仏の覚りというものを得る、ということになりますと、浄土の往生ということは覚りへの準備ということになります。言ってみれば、予備校みたいなものです。本当はここへ行きたい。しかしダメだったから予備役へ入って、それから目的を達成しようということになれば、浄土は予備校的になります。そして、予備校というのは大学に進学するものにとって必要なのであって、そうでないものには必要ではありません。そうすると、予備校的に見られた浄土というのは、ごく限られた人にだけ必要となって、浄土は極めて狭少なものになってしまいます。

 しかし親鸞はそうは見なかった。浄土の往生ということは仏に帰命することである。そういう意味では、帰命と願生ということは二つのことではないのです。この帰命と願生ということが別のものとして考えられていたために、浄土の往生ということが仏道らしくなくなったのではないかと考えられます。最も俗っぽい言い方で、死んだら往生だというようなことなどは、もはやどんな意味においても、仏道ということをその中から読みとることはできなくなっています。そして、仏に帰命する、仏に帰依するということを内容づけるものが浄土の往生ということかと思います。

 仏教徒であれば、仏に帰命するということは当然のことのように考えられます。我われも「三帰依文」をよく唱和します。「自ら仏に帰依したてまつる」、こう言った場合の、仏に帰依するという、そのことはいったい何であるのか。それは仏教徒だからそう言うのか。では、仏に帰依するというが、どうすることが仏に帰依したことになるのか。そういうことになりますと、「三帰依文」もはなはだ怪しくなってきます。

 親鸞がこの『和讃』において教えたのは、我われが仏に帰命するということの内容となるものが、浄土の往生ということである。浄土の往生は、我われが仏陀の智恵、慈悲というものに目覚めるということがある。その目覚めは、我われを受け入れ、我われを生かす、そういう環境という意味をもって我われの目覚めとなる。その意味で、浄土の往生ということが仏に帰依することであり、仏に帰依することが浄土の往生ということを内容とする。そういうことを親鸞は『和讃』において伝えようとしたと思われます。しかしそれが実体的に捉えられていき、そのことが浄土建立の意義というものとズレてきた。そういうことを展開したのが胎生・化生の問題になっているかと思います。

8、胎生・化生

 どうしてこういう胎生・化生という問題が出てきたのか。『大経』の異訳、漢訳の『平等覚経』、そして呉訳の『大阿弥陀経』を見てみますと、「三輩文」のところに胎生ということが出ています。この異訳における三輩文の位置は、次のことを私達に教えています。三輩文は、仏教に関わるあらゆる者が、どんな関わり方をしているにしても、その関わり方が上・中・下というように考えられてくる、ということを表しています。そういう、仏教に関わる者にとって避けることのできない問題が胎生という問題である。仏教に関わっているからそれでいいというような話ではなく、仏教に関わるということで、本人自身も自覚できなかった課題というものがある。そういう課題が見出されてきた。しかも、そういう問題がこの『大無量寿経』において見出されたということを表すのでしょう。

 このところの親鸞の引用のしかたは、時・機・臨終といったことから浄土往生が課題となる、とした場合の浄土とはいかなる理解になるのか、また、どのような課題をもつか、ということを「道場樹」のところからはじめて、そして「また言わく」というところで胎生・化生という問題を展開していくことで示していると考えられます。ここでしばらく胎生の問題を考えてみましょう。基本的には浄土というのはいかなる意味においても我われの認識・観念の対象にはならないものです。もし浄土が認識・観念の対象として建てられる時、胎生に結びつきます。なぜなら、それは問題の領域としては眼の問題になるからです。つまり眼というのは、そのままで知識あるいは智恵というものに関係します。身体でいえば頭に関係します。そして我われの眼は、比較しなければ「もの」が見えないという眼をしています。「もの」を知るというのは、これはAであってBではない、という形でAを知るのです。Aそのものを知るのではありません。AはBでなくてAであるという形で、比較して「もの」を知るというのが我われの「もの」の知り方です。

 浄土ということに胎生の問題が生ずるのは、浄土が認識対象として捉えられた場合、それは、この世との比較において捉えられることになるからです。もっとも一般的な捉え方は、この世が穢れた世界であるから、それに対して浄らかな場所、この世があまりにも悲惨であるから、それに対して苦の無いところの世界、もしそういう比較において浄土ということが捉えられていくとするなら、その捉えられた浄土は、自己関心というものにおいて捉えられた浄土であって、それは仏陀の浄土では決してありえない。ここに先にも触れましたズレが生じます。そういう問題が認識対象ということから出てまいります。そして、さらに仏教に関わるあらゆる者が、浄土ということを問題にしていく時に、なぜ胎生ということに陥ってしまうのか、ということが問われなければなりません。

 胎生というのは garbha-avasa の翻訳です。garbha は子宮・内部・胎児という意味であり avasa は住処・家という意味です。これに蓮華がつきますので、大きな蓮華萼の内部を住処とするということが「胎生」と翻訳されたものです。ここから胎生には二つの意義が考えられます。一つには、言ってみれば、母の胎内ということで喩えることができます。胎内は胎児にとって、きっと寒さも暑さもないところだと考えられますし、また食べることの心配のいらない場所とも考えられます。そして、住むことについても心を悩ませる必要のない場所として譬喩的に考えることが可能です。

 そうしますと、衣食住ということについてなんら心配のいらないところ、要するに問題のないところという意味になります。我われの浄土の求め方、浄土ということを考える考え方の中に、まったく問題のなくなったような場所を想定する。浄土ということで、問題のなくなることを願う形で、浄土ということが捉えられてくる。では、仏道を求めるということは問題がなくなることなのか。そうではない。そうでないとするなら、なぜ、いつのまにか浄土の往生が問題がなくなるような思考にいたるのであろうか。とすれば、本人においても、極めて見分けがたいことが我われの仏道を求めるという心の中にひそんでいるということになります。そういう無意識のうちに、我われを方向づけていくようなものをあらわにする。それが『大経』においての「胎生・化生」の問題であったかと思うんです。

9、自大我

 天親が「世尊我一心」と言われた。そのことをうけて曇鸞は「仏教は無我であるはずだ。それにも拘わらず我一心という我というのはなぜであるのか」という問をたて、邪見語、自大語、流布語という三つの言葉をたてたことは周知の通りです。この中で自大語というのは、本人において見極めがたい我の意識、無意識のうちにはたらいてくるような我の意識を指します。この無意識の我についての心が自ら大きなるもの、安定したものとしてたてなければおれない、つまり、自分自身が最大の関心事になる。ということを表した言葉です。

 今、ここで胎生の問題というのは自大語に関係します。浄土の往生を願うこと、それが菩提心であるのか、自己関心であるのか、区別がたたないということです。人間にとって自分が最大の関心事になるということは、どういう場合に起こるかと言いますと、誰しもが経験するような点から考えますと、死ということが人間にとっては最大の関心事、自己関心事とならざるをえない。自分が死ぬ、自分ということが壊れていくわけですから、そのことが最大の関心事になります。自分が死ぬということに直面して我われに経験される関心事の内容とはいかなるものかといえば、一般的には今まで自分のやってきたことが意味があったか、なかったのか、自分はいったい何をしてきたのかといったことでしょう。そのために、どうしても関心事とならざるをえないものは、今までやってきた自分の出来事に意味を見出し、そのことに納得したい、ということでしょう。

 これを今までの流れの中で捉えますと、自分の上に問題を感じ、菩提心を発し、見仏を目標としてきた。ところが、死を意識することで、見仏が可能であるかどうか以上に、見仏を目標としていた自分自身が最も深いところで揺り動かされたということになります。そして、もし仏に遇うことができないならば、自分が今までやってきたことは全く意味がないのだという深淵をのぞきこみ、その恐怖より誠に深い自己関心につかまっていき、この深淵に蓋ができるなら、仏陀も浄土も利用されても不思議ではありません。ここに、いつの間にか発心が究極的な自己関心の満足に変質していきます。ところが、当人はそれが発心の必然の流れと思って疑うことがありません。

 本人の意識からすれば極めて当然です。このままで終わったんでは意味がないではないか、このまま死を迎えるとするなら、自分のやってきたことに意味がないではないか、というその叫びは、極めて当然のようにみえますが、今まで生きてきた全体が、つまるところ、自己関心を究極のところにおいて満足させようということであったことに薄皮一枚のところで気づかないのです。ここに胎生の問題があるといえます。このように仏道を歩むといいましても、もっとも気づきがたいところで自己関心を超えさせないものを我われの「私」が持っているということを、この胎生の問題は考えさせるかと思います。

 十九の願が、臨命終時ということで死の問題をとりあげたのは、死ということを通すことで、我われの在り方が誠に深い自己関心というものを持って生きていることをあらわにするためでしょう。そういう自己関心が、その自己関心を満足させるために浄土ということに期待をかける。そうすると、そういう浄土の認識は、深いところで自己関心ということがもとにあるために、問題のなくなる方向でその歩みが進められていきます。そして、いつのまにか、問題のない、安穏な世界を仏の世界のように考えていくということが我われのうえに起こってきます。それが「十九の願」ということを建てて、「胎生の文」をお引きになられた理由ではないかと思われます。

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Last modified : 2014/10/30 23:18 by 第12組・澤田見