10、罪福信

 次に、なぜこの三輩の文と胎生のことが結びつくのかという問題があります。道を求めてきて途中で終わるようになった時に、なぜ浄土と結びついたのか。また、なぜ浄土であったのか。これを三輩の文と考えあわせますと、そこに今までこれだけのことをしてきたんだという、諸々の功徳を修してきたということをたのみとするということがあるからです。つまり、「修諸功徳」、諸々の功徳を修したことをたのみにする。これは一見、当然のようでありますが、自大の意識とのつながりからそれはそのままで「罪福の因縁を信ずる」ということに結びつきます。これだけの努力をしてきたんだから、当然それに応じて福があってよいはずだ。これだけのことをしてきたんだから、それに応じて罪というものは少ないはずである。要するに、功徳を修してきたということが罪福の因縁を信ずるということをたのみとし、そして、罪福の因縁を信ずるというそのことが、容易に浄土の往生をたのみにする、ということにつながっていった。ですから、上輩、中輩の者であればなおさら、臨終ということを契機として浄土に結びついていきます。やはりそこに、非常に深い自己への関心、これこれのことをしてきた自分であるから、自分には罪に当たるようなものはないはずだ、問題などあろうはずがないのだと、問題がなくなることをいつのまにか願う方向になってしまう。

 そういうふうにみますと、願文から始まって、三輩の文があって、そして『大経』の浄土を現わす引文があって、そして胎生の問題につながっていく。一貫した流れです。臨終ということを避けることのできない我われ、そしてそこで努力すればするはど、その努力が仏の覚りということに届かない場合、たのみとするのは罪福の因縁を信ずるということにならざるをえない。そういう形で浄土が捉えられてきた場合に、その浄土の受けとめ方というのは胎生ということにならざるをえない。ここに胎生の意味は、先に言いましたように問題が全くなくなった世界という意味だけではなく、広く公開されない世界という相が知られてきます。功徳を修したと自負する者だけに許可される世界。公開性をもたない世界。ここに胎生の第二の意味があると考えられます。そういう意味で十九の願が展開するなかで、『大経』の胎生の問題が出されてくるかと思います。

11、仏の教化

 そして、『大経』の引文のところで、

仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、(聖典p328

という、五つの智恵があげられています。浄土の往生ということは、我われが仏陀ということに目覚めるのであって、問題がなくなるということでもなければ、そしてさらに、浄土が一切衆生を覚らしめんがための仏智をかたどった世界であって、一部のもののための世界でもないのです。そこがズレるのです。自らにおいても見極めがたい自己関心から、浄土ということとズレてくる。そのズレた部分を表現するのに胎生とか、辺地とか、懈慢とか、胎宮というような言葉が使われてくるかと思います。そういう意味では、自己関心において捉えられた浄土が「化身土」という意味になってくるかと思います。それを化身土となづけるのは、胎宮であれ、辺地であれ、懈慢であれ、ズレて浄土が捉えられるのですが、そのことがもう一度教化されるという意味があるから化身土なのです。そうでなければ、それは単に誤った理解ということになります。化身土という、やはり仏土ですから、仏の教化という意味をもちます。

 我われの考え方が浅いために、浄土との間にズレが生ずるのではない。自分においても、認識できない、目覚めることができないはど微妙で深い自己関心を生きているからです。

 ところが第十九願を見れば、そこに表されている浄土が化身土であると言っているわけではありません。親鸞はここに仏の教化、方便を見たのでしょう。つまり、我われの発想からいけば、第十九願の浄土は、あらまほしい世界であり、当然なことと考えられますが、それは仏の側からいえば、まず、我われの発想に応えて我われを認められるということになります。なぜかといえば、我われを教化せんためです。そして、当然と考えられた浄土にズレを生ぜしめ、そのズレが我われの発想そのものにひそむ無意識な自己関心によることを我われ自身に気づかせるという意味で、そのズレた世界を化身土という。辺地とか懈慢というのは、つまらない場所という意味ではなく、我われが持っている求道心と言ってもいいですし、宗教心と言ってもいいわけですが、そういうものの見極めがたい部分を引き出してきて、それを我われにつきつけた。ここに仏の教化があります。いつでも辺地とか、胎宮、懈慢というように陥る危険をもっている。そういう宗教心なり、求道心というものを我われは生きていることを胎生の言葉によって我われを教化される。それで方便化身土というのです。 我われが何の疑いもなく真仏土であるかのように了解している浄土こそ、仏が我われを教化し、覚らしめるために建てられた浄土である、という親鸞の了解が「方便化身土」という言葉の意味です。

 決して、自分は真仏土で彼は化身土だという話ではないのです。他をうつために問題にされたのではなく、およそ仏教に関わりながら、罪福の因縁をたよりとしていく人間にあって、化身土という世界が明らかになるということは、真仏土による目覚めを表します。このように我われ自身にとって避けることのできない問題が、この化身土ということで示されているといえます。

 浄土は仏智ですから、仏陀ということをかたどったものです。浄土教という経典は、仏陀とは何かということを浄土をもって応えたのです。般若経系は「空」あるいは「無自性」というようなことをもって応えたんでしょう。浄土教経典といわれるものは、仏陀とは浄土を表すのだ、という意味で仏智をかたどったのです。

12、不思議の仏智

 それで次に、不思議智、あるいは不可称智とあって、仏智を示し、浄土は我われの認識の対象とはならないことを表します。質が違うのです。我われの認識からすれば、浄土と表されるものは異質の世界と言わざるをえません。かりに文学的な表現で言えば、浄土は目の対象ではなしに、我われの足の着くところです。もっといえば、浄土が見出されることによって我われの足が着く。それまではどうしているかというと、頭をもって足にしているのです。目が足になっているのです。しかし浄土は決して目の対象ではなしに、我われの足の着くところ、という表現ができるでしょう。そういう意味では、この不思議智、不可称智というのは、比較して、二分してものを知っていくというような認識においては捉えることができないのです。それにも拘わらず、我われは二分してものを知る意識というものをたよりとして浄土を考えます。そのためにズレが生じてくるのです。

 そして、大乗広智、無等無倫最上勝智、こういう言葉で表そうとするのは、浄土というのは一乗ということを表すわけです。大乗広智というのは、広いという意味を表します。無等無倫最上勝智というのは、これは等しいものがないところに唯一の等しいものを見出したという意味で、唯一です。二つも三つもあるのではなく、唯一のもの、唯一にして平等であり広いという意味をもつという意味です。このように大乗広智、無等無倫最上勝智という言葉で、浄土とは一乗という意味をもちます。

 一乗という意味は、上、中、下といった区別が何の意味ももたないことを表すものです。上、中、下というのは、釈迦牟尼仏を起点にするからこそあり得るものです。しかし、唯一にして等しいという点がでることによって、上、中、下ということが何の意味ももたなくなる。たとえていえば、円の中心というものがそういう意味をもつかと思います。円の中心は一つです。それによって、すべての周縁は等距離になります。唯一のものが見出されることによって、それまで自分の考えが近いとか、遠いとか言っていることが意味をもたなくなった。それが一乗という意味です。ですから、上は何に対して上であったのか、また下は何に対して下であったのか、という比較は意味をもたない。そのことによって、いかなる人のうえにも、誰のうえにもということが展開してきます。そういう意味で浄土をもって一乗を表すのです。

13、自己関心の浄土

 そういう浄土ということが受けとられずに、自己関心において浄土が捉えられた。

罪福を信じて、善本を修習して、その国に生まれんと願ぜん。(聖典p328

というのは、この自己関心において浄土が考えられているということを表すのでしょう。しかしそれは当然ズレてまいります。するとその者が胎生といわれる。これは深く自身に執する者までも浄土の内側に捉えるということで大悲が示されます。ですから、自己関心の満足を願う誤った捉え方をするのが間違いだということを指摘するのではありません。間違いは間違いですけれども、その間違いを知ることが転換点となって目覚めへと展開していく意味があります。胎生がつまらないということではなしに、そのことがもう一度展開して、唯一という一乗ということに目覚めていく契機となる。そういう契機になる意味があるものですから、間違った浄土理解であるけれども浄土の中にとり入れられるのです。つまらないと言って捨てるのではありません。このようなことが、この巻における魏訳の『大経』の引文の意味になるかと思うんです。

 さらに同じところの文が唐訳の『如来会』によって確認されてきます。確認というのは、魏訳に胎生、化生の問題が出てきますが、これは魏訳だけがこのことを問題にしたのかどうかということです。そうではなくて、そのことを異訳経典である『如来会』も問題にしている。そのことによって偶然出てきたということでなしに、この胎生、化生の問題は、仏道を求める者にとって必然的な意味をもった問題であるということの確認という意味が、『如来会』の引用の意味の中にあるかと思います。

 この『如来会』の中に、かるがゆえに因なくして無量寿仏に奉事せん。(聖典p329)とあります。この言葉は、無量寿仏に関係するその仕方が、自己関心による罪福の因縁を信ずるという形で無量寿仏に事えているのであって、決して仏に目覚めて仏に事えているのではない。仏に遇うて仏に事えるんであって、そういう意味で因がありません。因がなくて自己関心という縁があるわけです。罪福の因縁です。因縁を信ずるというのは、これは因ではなしにむしろ縁です。我われに帰命するとか、仏を信ずるという場合に、因がなければなりません。しかし、我われが因だと考えている事柄はほとんど縁であって、そして我われが仏を問題にするという因は、仏をも道具にしてしまう。究極的な自己関心が因になってしまっています。しかしそれは仏に奉事するところの因ではありません。そして我われの、仏を問題にする、浄土を問題にするというその問題の仕方が、いつでも対象的にしか問題にできないということが、我われをして仏に遇わせなくしている。そういったことがこの、「かるがゆえに因なくして無量寿仏に奉事せん」という文で考えることができるかと思います。

 そしてその後に、また『大経』、『如来会』が引かれます。そこでは「小行の菩薩」であるとか、あるいは「少善根のもの」が浄土に生まれる、ということが出てまいります。これはどういう意義をもっているかと申しますと、浄土との間にズレをもちながらでも、一度でも仏教に関わりをもった者が浄土を求めるということで、浄土に触れた者を、ズレているけれどもそのズレた者をそのままに受け入れる。そこに仏の教化が示されるのです。そしてそのズレを衆生自身に、衆生自身知り難いところの仏智の疑惑を知らせる。そのために、少善根の者をも、仏は受け入れることを表します。

 次に善導と憬興の二文が出されます。「経」の後に「論」がきますのは、仏教者の歩みを示すためです。仏意を明らかにしてきた歴史という意味があります。善導・憬興の二文によって、求道者達に課題となり、注目されてきた浄土往生は、仏の大悲・方便の中にあることを求道者達によって明らかにされてきたことを示します。したがって、この二文は、その求道が胎生となる求道者自身の問題をあらわにすると同時に、仏の大悲・方便の深さを讃嘆する意味にもなります。親鸞からすれば、これらの求道者の努力なくして、自分にも胎生の仏意は知られなかったであろうという謝念があるのでしょう。

14、懈慢

 そしてもう一つ『往生要集』が引かれます。これも求道者による仏意の論証という意味をもちます。『往生要集』の中から「群疑論」を引かれます。この「群疑論」の中に懈慢界ということが出てきます。このことに源信は注目します。「懈慢界」の「懈慢」というのは、覚ってもいないのに覚ったとすることです。増上慢とか卑下慢とか、そういう慢の中にあっても、最も度しがたい慢がこの懈慢です。先に言いましたように死ということが出てくれば、これまでの「修諸功徳」が死によって消えてしまうということになってきた時に、これまでの功徳は浄土往生の果報に当然つりあうという主張が、何の疑いもなしに、また当然のこととして主張されてくる。何の証明もなしに当然のことと考えられる、ここに懈慢の意味があります。ところが当人にとって切実であり、また、必然と考えられるものですから、それが何の証明もない独断と等しいものであるという翻りは非常にむつかしいことになります。切実であればあるはど、思いもしないような独断・独善を持っているということに気づくことは、誠に至難といわなければなりません。そういう意味で懈慢というのは非常に重いのです。先に、胎生と示されたものが、ここでは懈慢と示され、修諸功徳をたのみとする浄土往生が仏法に似ていて非なることがあらわにされます。

 次に、

第十八の願は「別願の・中の別願」なりと顕開したまえり。『観経』の定散諸機は「極重悪人唯称弥陀」と勧励したまえるなり。(聖典p330

と、ずっと問題にされてきたことがまとめられます。「自釈」というものは一つの命題です。その意味で、自釈に続く文はその命題を証明していく、根拠づけていくという意味をもちます。そして、次の自釈でまとめられていきます。それがこの自釈の部分です。

 この自釈は何を意味するかといえば、死を含めた機と時を生きる求道者達が、時・機の必要性から浄土往生を課題としたけれども、それは仏陀が再度教化せしめんとして建てられた浄土をたのみとしているのであって、本来は第十八願に示される浄土往生こそがたのみとならなければならないことを表すものです。しかし、そのためにも、十九願に示された浄土往生は必然性があったのであるという意味です。『大経』の弘願に基づいて「既に如来の悲願は在しました」という意義を語るものが、ここの自釈の意味になるでしょう。

(1988、3、28)

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Last modified : 2014/10/30 23:18 by 第12組・澤田見