一枚の写真に見える日本社会の構図

仏具供出これ、去年の『同朋新聞』にも掲載された「仏具の供出」という写真です。

一九四一(昭和十六)年、太平洋戦争が始まる頃です。金属類回収令が出たわけです。日本は小さな島国で、鉱物などの資源がとても乏しい。戦争が始まると金属が非常に不足して、お家にある鍋とか釜とか、貴金属も女性の装飾品とかが供出させられた。それから、お寺で言いますと、梵鐘や花瓶などが、供出されたわけです。これは岐阜県池田町温知小学校の講堂で、この仏具を供出するための供出法要をしているという写真です。

講堂の舞台の上に並べられた仏具があります。例えば、これは大谷派の光慶寺、善光寺とお寺の名前がそれぞれ書かれていて、これから供出される梵鐘や喚鐘や花瓶などの仏具が並べられています。

一番後ろにご門徒のおじいちゃんおばあちゃんが座っておられて、その前に五条袈裟と衣をつけられた僧侶たちが座っています。おそらくこの仏具を供出されたお寺のご住職方が並んでいるのでしょう。どういうご心境だったのかと考えてしまいます。

並べられた仏具の後ろには南無阿弥陀仏の名号が掛かっています。仏花も生けられています。けれども、これよく見ますと、南無阿弥陀仏の名号の後ろが日の丸です。名号に合掌すれば、日の丸に合掌するという構造になっています。左上にあるのは、少し見えにくいですが皇居の二重橋です。反対側の右上には、この岐阜県池田町温知小学校の学区で亡くなられた若い戦没者の写真が掛かっています。そして、その上に一枚の額があって、これが靖国神社の灯篭です。この一枚の写真の中に、当時の日本社会の構図が見えてくるわけですね。

一九四一年といいますと、もうすでに日中戦争は始まっています。

御直命「忠勤を尽くさるるよう」

御直命1日本が一番最初に対外的にした戦争が、明治二十七年の日清戦争です。明治維新の後に、日本が近代国民国家となって、そして外国と戦争することになります。

明治維新の内乱は、日本の国で官軍と賊軍との戦争です。もちろんこの戦争で亡くなられた方もおみえですけれども、日本と他の国との戦争の一番最初は日清戦争です。

大谷派は、戦争があるたびに「この戦争はどういう戦争なのか、この戦争の意味と、僧侶や門徒はどういう心構えでこの戦争にあたらなければならないのか」ということを文章で示します。この日清戦争のときは、「法主」からの「御直命」という形で出ています。これは、その当時の『本山事務報告』の号外の資料です。「本月十日午前八時大寝殿ニ於テ 御門跡御直命 御裏方御親示在ラセラレタリ」とあります。少し見づらいかもしれませんが、読ませていただきます。

このたび清国と戦端を開き已に宣戦の 詔勅も公布に相成りたる次第実に国家の一大事
天皇陛下におかせられては深く宸襟を悩まさせられ実に以て恐れいり奉ること 就いては兼々御鴻恩を蒙りたる我人に在っては上下一般同心協力して報国の誠を尽さねばらなぬこと 殊に本宗は王法為本の宗義なれば此教旨を体し一身を国家になげうち忠勤を尽さねばならぬ
併し兵役にあたらぬ者は命を捨つる必要もなきゆえ其かわりには奮つて軍資を献納し又は在外の兵士を慰労し造次顛沛にも国家の一大事ということを忘れぬよう尚又此際にはいよいよ出離の一大事を心掛け急ぎて信心を決定し平生業成の身となり天恩を仰ぎ仏恩を喜び現当二世心得違い無き様いやましに法義を相続し国家のためくれぐれも忠節を尽さるるよう
(『本山事務報告』号外 明治二十七年八月十三日・原資料のカタカナ表記をひらがな表記とした)

ここで、「一身を国家になげうち忠勤を尽くさねばならぬ」と、門徒と僧侶に向けて命じているわけです。その次に「併し兵役にあたらぬ者は命を捨つる必要もなきゆえ其かわりには奮って軍資を献納し」とあります。兵役に行かない人は命を捨てる必要もないのだから軍資金を寄付しなさい、と。この御直命の言葉を、裏側から読めば、兵役にあたる者、戦場に行く者は命を捨てる覚悟で、命懸けでやってこいということが、ここの行間に含まれています。

最後の言葉は、「天恩を仰ぎ仏恩を喜び現当二世心得違い無き様いやましに法義を相続し国家のためくれぐれも忠節を尽さるるよう (天皇の恩を仰ぎ、仏恩を喜んで現当二世心得違いのないように、さらにいっそう法義を相続し国家のためにくれぐれに忠節を尽くされるよう)」です。

修身この「忠節」という言葉は一つのキーワードです。忠義をつくしなさいということですけれども、よく似た言葉が一九二〇年大正時代の尋常小学校修身の教科書巻四、ちょうど四年生の子どもが勉強した教科書にあります。四年生というと、だいたい十歳の子どもがこの教科書を使ったわけです。この尋常小学校の修身書は、この資料は大正九年ですけれども、その後昭和十二年に改定されて少し文章が詳しくなってます。今日はシンプルな方を紹介します。

第四 靖國神社 靖國神社は東京の九段坂の上にあります。此の社には國のために死んだ人人をまつつてあります。春と秋との祭日には、ちよくしをつかはされ、臨時大祭には天皇皇后両陛下の御じしんに御さんぱいになることもあります。忠臣義士のためにこのやうにねんごろなお祭をするのは、天皇陛下のおぼしめしによるのであります。われらは陛下の御めぐみの深いことを思ひ、ここにまつつてある人人にならって、國のため君のためにつくさなければなりません。

私も高槻で三年ほど小学校の教員をした経験があります。こういう教材を見ると、どこを中心に子どもたちに伝えるべきかとすごく燃えてしまいます。どこが学習のポイントかと考えると、まずは、靖国神社はどんな立派なところなのかということ。それからどういう意味がある神社なのかということ。そして、かつて私がその時の教師だったら必ずそう教えたと思いますけれども、この教材で一番子どもたちに伝えたいポイントは一番最後です。「(あなたも)ここにまつつてある人々にならつて、國のため君のためにつくさなければなりません。」というところです。御直命の一番最後「国家のためくれぐれも忠節を尽さるるよう」と同じ内容ですね。

挺身殉国この写真は、一九四一(昭和十六)年十二月二十五日、御影堂門に掲げられた大看板です。当時、三つのスローガンが掲げられました。皇威宣揚、生死超脱、挺身殉国です。挺身殉国とは、身を挺して国に殉死、殉ずるというような意味です。こういう歴史を持つのが私たち真宗大谷派でもあるわけです。

私たちの国は、明治二十七年に日清戦争を経験しています。それ以降、だいたい十年ごとに大きな戦争をしています。明治三十七、八年は日露戦争という戦争です。その後、シベリア出兵があって、満州事変、第一次世界大戦があって、そして一九三七(昭和十二)年に日中戦争、その後一九四一(昭和十六)年に太平洋戦争が始まるわけです。

今、日中戦争と申しましたけれども、一九三七(昭和十二)年七月七日、北京の郊外盧溝橋というところで始まりました。その当時、私たちの国は戦争とは言わずに「事変」といいました。支那事変ですね。事変というのは警察権力では止めることができないようないざこざ、という意味が広辞苑などに書かれています。戦争と呼べなかった事情があります。それは宣戦布告をしていないということです。中国に対して宣戦布告をしていないので、事変という形で軍隊を送って行ったのです。

この日中戦争に際しても、それ以前の日露戦争に対してもほぼ日清戦争に出したような「御直命」と同じような内容の文章が、戦争ごとに出されています。そして戦争が終わったら何をしたかというと、戦没者追弔法要です。戦争で亡くなられた方々の法要をお勤めしてきました。この写真は支那事変と書いてありますね、日中戦争の後に御影堂で勤められた法要です。

その日中戦争の際にはですね、戦没軍用動物追弔法要、戦争に動員された馬、鳩、犬、そういう動物の法要も本山で勤まっています。

支那追弔法会2 支那事変追弔 軍用追弔法会2 軍用動物追弔1

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Last modified : 2020/04/28 17:56 by 第12組・澤田見(組通信員)