非戦を生きた僧侶たちの歴史の掘り起こし

この一九九五年の「不戦決議」のあと、もう一つ始まった事柄があります。「不戦決議」の中には「かつて安穏なる世を願い、四海同朋への慈しみを説いたために、非国民とされ、宗門からさえ見捨てられた人々に対し、心からなる許しを乞うとともに」と書かれているところがございます。大谷派はこの後、宗派の中で、戦争中に宗派が見過ごし見放し、歴史の闇に埋もれさせてしまった人々の歴史の掘り起こしを始めました。

まさに、この大阪教区におきましても、和歌山の新宮の地で、明治二十七、二十八年に起こった日露戦争において、非戦論を唱え大逆事件に連座された、高木顕明さんという僧侶の歴史の掘り起こしを始められているわけです。
また、岐阜県垂井町の、これは一九三七(昭和十二)年の日中戦争の際に「戦争は最大の罪悪である」と発言されて、これが陸軍刑法第九十九条の流言飛語罪であるとして処罰された竹中彰元さんの歴史の堀り起こしが始まっています。

大谷派は、この「不戦決議」を世の中に発信した不戦の誓いとして、それを元に、その後の歩みが進められてきたということが伺えます。

また、この今年の五月にも安全保障関連法に関して、宗派はいろいろな声明を出しています。これも、宗派の近代史の検証、宗派の謝罪、という流れの中にある事柄だと認識しています。

まだ遅くないはず

ただ、そういう中でこの二十年間、様々な声明を出してきたわけですが、やはり、私たちの歩み取り組みがやはり非常に不十分だったのだと思わされることがございます。

これは、二〇一四年七月に朝日新聞の声欄に掲載されたある高校生の投書です。ちょうど集団的自衛権の閣議決定がなされた後です。読んでみます。

「命捨てろ」と弟に言えない  高校生 坂本繭子(東京都 十七)
中学三年生と小学五年生の弟がいる。集団的自衛権の行使容認が閣議決定された翌日の朝刊を眺めていた時、下の弟が聞いてきた。
「僕、戦争いくの?」今までそんなことを聞かれたこともなく、ただ絶句した。「行かないよ」とすぐに答えることが出来なかった。代わりに上の弟が「行くんだよ」と複雑な顔で答えた。
今まで笑い飛ばせたことが、そうできなくなった。
「武力の行使」に「範囲」など存在しない。一度手を離せばひたすら膨張していく極めて危険なものだ。そんなことも分からないとは、お粗末すぎる。
「国のために命を捨てろ」という言葉は、映画やテレビの中でしかなじみがなかった。その言葉を私は弟たちに、これから生まれてくるすべての命に言いたくない。今の世代も未来の世代も共通の思いのはずだ。私たちは、殺し殺されるために生まれ、そしていきてきたわけではない。

こういう投書をさせてしまう世界を作った責任というのは、おそらく「不戦決議」から二十年、もしくは親鸞聖人七〇〇回忌からの五十年の間に、そこの時を生きて来た間に私たちが作ってきた社会なのでありますから、若い人に、その時を生きたもの、とりわけ大人はですね、大きな責任があるのだろうなと思うわけです。こういう投書をさせてしまう社会を作った責任は、私にあるわけです。いくら、近代史の検証とかいろいろやってきたにも関わらず、こういう社会を作ってしまっている。

でも、作ってしまったことをこの投書で教えてもらったわけですから、遅くないはずです。今から、この「命捨てろと弟にはいえない」と投書をしてくれた繭子さんと、この人の問いかけに、やっぱりこの社会を作ってきた一人の大人として、こう応えていきたい、応えていこうという一人ひとりの、私の歩みが始まらないといけないということを改めて思っています。

話があちこちにいって大事なことがお伝えできていないように思うわけですが、時間になりましたので、ここで、一度お話を終わりにしたいと思います。長い間ご静聴本当にありがとうございました。

資料 一九八七年 全戦没者追弔法会にあたって

*肩書き・役職は講演当時のものです。

一九八七年 全戦没者追弔法会にあたって 

真宗大谷派宗務総長 古賀 制二

本日、 ここ真宗本廟においてご遺族の方々とともに全戦没者追弔法会を厳修し、宗祖親鸞聖人に親しく対面して、身を端し、心を引きしめ、あらためて聖人から浄土真宗のお法をわが身に聞き開く機縁を与えられましたことを篤く感謝申し上げる次第であります。
 本年は、昭和十二年に日中戦争がはじまってから数えてちょうど五十年になります。そして、いわゆる教団問題を逆縁とし、「同朋社会の顕現」という一句をもって宗門存立の意義を明示しました新宗憲を制定して五年の歳月を経たのであります。時の流れは速く、なしえたことのあまりに少なきを痛感せざるをえません。それゆえにこそ、今、ここに時の流れに抗して静かに立ち止まって、例年、勤めてまいりました戦没者追弔会の意義を再確認し、まさしく真宗の教法にもとづいた追弔法会をお勤めしたいと念願したことであります。
 この念願より「法」の一字を加えて追弔法会とし、さらに教法の核心であります如来の本願から「十方衆生」と呼びかけられている、その呼び声に耳を澄まして聞きとった意を「全」の一字に託して、本日ここに、全戦没者追弔法会を厳修することになったのであります。
 憶えば、太平洋戦争で命を奪われた日本の軍人、民間人は二百万人とも二百五十万人ともいわれます。なかでも、私たちが決して忘れてはならないことは、日本軍によって殺されたアジアの民衆が実に一千万人以上にも達するという事実であります。そして、二十世紀に入ってから世界中で、戦争によって人間が人間を殺した数は一億人ともいわれています。かくも大量に罪の意識もなく、正義の名によって人間が人間を殺したのは人類史上はじめてのことであります。
 このような傷ましくも悲しい人類の罪業をわが身に引きうけて、「無辺の生死海を尽くさん」と願われた宗祖親鸞聖人の教えに耳を傾け、 心を開いて、聖人の願いをわが願いとして立ち上がるところにこそ、今日の全戦没者追弔法会の意義があると申さねばなりません。「死んだ人たちは、想い出す人がある限りその想い出のなかに蘇る」といった詩人があります。膝がしらが抜ける心地で聞いた戦死の公報、戦災で火だるまになった家族のことをどうして忘れることができましょう。
 またある人の詩に「死んで往った人は 帰ってこない以上 生き残ったものは 何がわかったらいい」とあります。遺された者が、その人の死を悲しむ傷むところに、亡くなった方々、今は亡き親や夫や子供の悲しみと傷みとが、今、ここに生きている私たちに現前するのでありま す。その時、私たちはその人たちから、死をどのように受けとめ、またそのいたましい死に報いるべく今日どのような生き方をしているかを厳しく問いただされるのであります。
 浄土真宗の教えのもとに営まれるこの全戦没者追弔法会は、決して鎮魂・慰霊の儀式ではありません。いたましい出来事を忘却の彼方へと 送りこむ儀式であってはならないのであります。
 「歴史とは過去と現在の対話であり、現在と未来との対話である」ということばがあります。過去を忘却し、未来に夢を描くならば、それは流転であります。私たちは「忘却の罪」を知り、過去を現在にもたらし、現在において過去の悲劇のよってきたる原因を見定めねばなりま せん。その見定めを通して戦争という、人類最大の悲劇から解放される道を明らかにし、その解放の道を歩みつづけるところに「向涅槃道」 としての仏教徒の生活があるのであります。しかも、散乱放逸の凡夫の身をもってなお仏弟子の名に加えられ、五濁悪世としかいいようのな い現在の歴史的、社会的状況のただなかで、「願生浄土」の一道を歩みつづけるところに私たち真宗門徒の使命があるのであります。
 私たちが同朋会運動の中で『現代の聖典』として学んでまいりました『観無量寿経』の序文には、人間が人間を殺すという悲惨な出来事が述べられてあります。しかもその悲しみの涙のなかから立ち上がって、阿弥陀仏の浄土に向かって新しい生活を歩みはじめる韋提希夫人の姿を、未来世の我等一切衆生が救われる道として説かれているのであります。
 善導大師は、その時の韋提希夫人の心を「自身の苦に遇うて世の非常を覚る」と釈しておられます。ここには二つの重要なことが教えられています。
 第一は、「死」の問題が自然死ではなく「殺」、つまり殺すというなまなましい相であらわされ、第二には、身の問題がただちに社会の問題としてとらえかえされているということであります。
 本日のこの法会は、仏の智慧の光のなかで全戦没者の心奥の願いに耳を傾け、傷みと悲しみを分かちあう集いであります。
  確かに、遺された者にとっての悲しみは、直接にはわが親を、子を、夫を、そして兄弟を失った悲しみにちがいありません。戦争によって後継ぎを失い、寡婦となり、あるいは孤児となった者の生活の傷みであります。そして、死にゆく者に対して何もしてあげられなかった自分の臍をかむような無力の悲しみであります。
 しかし、その悲しみと傷みを生み出したもの、子供や夫や兄弟を私たちから奪ったのが戦争であります。わが身の悲傷を生み出したものは戦争でなくてなんでありましょう。
 今日、私たちに直接かかわる、事件としての戦争は終わっているかのようにみえます。しかし、戦争を生み出した政治・経済の仕組み、 人々の価値観・人間の考え方は、基本的には今に至るまで変わっていないように思われます。
 今日、超大国をはじめとする核爆弾の保有量は、優に人類をいく度も全滅させることができる程のものであります。人類は五千年の文明の果てに、ついに狂気にとりつかれてしまったのでありましょうか。科学者のなかから科学者の責任論を超えて「科学自体の罪」ということが語られてきている程であります。
 私たち浄土真宗の流れをくむ者は、殺し合わなければ生きてゆけない世界からの解放を『観無量寿経』から教えられてきました。そして、「敵、味方ともに助かる道を明らかにしてくれよ」という父の遺言に発起して道をもとめ、ついに浄土門の独立を決断された法然上人の伝記を何度も聞いてまいりました。ところが想い起こせば戦時中、わが宗門は戦争を〈聖戦〉と呼び「靖国神社ニ祀ラレタル英霊ハ皇運扶翼ノ大業ニ奉仕セシ方々ナレバ菩薩ノ大業ヲ行ジタルモノト仰ガル」といったのであります。そのこと自体が深い無明であり、厚顔無恥でありました。今そのことを憶うとき、身のおきどころがないような慙愧の念におそわれます。
 親鸞聖人は「『無慙愧』は名づけて『人』とせず」と教えられていますが、戦争は人を人でないものにしてしまうのであります。戦争は殺し合いなるがゆえに罪であり、その戦争を〈聖戦〉と呼ぶことは二重の虚偽であります。戦争に参加する者は被害者であるとともに加害者となるのであります。
 私たちは単に、「過ち」といって通り過ぎるにはあまりにも大きな罪を犯してしまいました。わが宗門は聖人の仰せになきことを仰せとして語ったのであります。私たち僧分の者はその罪をおもうとき、ただ皆様の前に沈黙の頭をたれる他ありません。かつて、仏弟子央掘摩がそ うしたように、石もて打たれ、血を流しつつ、教法が照らし出す、明らかな批判と全戦没者の悲しみに身を曝して、真宗門徒本来の姿にたち帰ることのほかに今、私たちのなすべきことはありません。
 このような私たちの犯した重い罪にもかかわらず、その罪をわたしたちに知らしめ、罪からの解放の道を開く如来の本願は、三世をつらぬいて、常にはたらきつづけて在しますのであります。尽十方無碍光如来の智慧の光は、戦争を生み出す人間の無明を不断に照らしつづけているのであります。
 今こそ私たちは、この如来の本願に乗託し、涅槃と呼ばれる真の平和の世界に向かって新しい生活をはじめる時であります。私たちは、いかなる困難にも堪えて仏道に生きる主体を本願の名号を体とする真実信心に賜って、不退転の歩みをつづけねばなりません。
 まことに浄土真宗の救いは現生不退であります。今、全戦没者追弔法会にあたりこの真実信心に呼び覚まされて深い慙愧のうちから私の衷心の念を申しのべ、皆さまにお聞きいただきたいと存じます。
  
 私たちは仏教徒として涅槃に向かって生き、真宗門徒として願生浄土の道を歩みます。
 それ故に、身命にかえて戦争の防止に努力します。
「同一に念仏して別の道なきがゆえに、遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり」と語られ る浄土の荘厳功徳を身に受けて、同朋社会の実現を目指し、日々の暮らしがそのまま平和運動であるような念仏者の生活実践に向かって、今からその歩みを始めます。

 今、申しあげました私の言葉が幸いにもここにお集まりくださった皆さまの胸に共鳴を呼び起こし、共感の輪をひろげて、やがて真宗大谷派が全宗門の名において「非戦の誓い」を内外に向かって宣言できる日の一日も速く来たらんことを念願することであります。
 最後に、宗祖親鸞聖人の教誡を、あらためてしっかりと各自の胸深く信受するために、聖人のお言葉を拝読させていただきます。

それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、『涅槃経』に言わく、仏に帰依せば、終にまたその余の諸 天神に帰依せざれ、と。

一九八七年(昭和六十二年)四月二日

発刊にあたり

我々真宗大谷派は、先の大戦において国家体制に追従し多くの人々を戦地に送ることを是とした宗門であります。

宗会(宗議会・参議会)は、これらの反省から1995年に「不戦決議」を、2015年には改めて「非戦の誓い」を表明し、「真の平和」を希求していくことを決議しました。

これを受けて大阪教区会議員教学振興委員会では、具体的な非戦を確かめる機縁となることを願いとし、公開講座を開催する運びとなりました。

本書は、この願いのもと2015年9月15日に山内小夜子さんを講師としてお招きし、「戦後70年の今、非戦を確かめる集い」と題して開催された公開講座の記録 です。

なお、今後様々なところで「非戦・平和」の学習会が開催され、本書が学習資料として活用できるように、当日の講義をでき得る限り忠実に表現させていただきました。

講師の山内小夜子さんには、大変お忙しい中ご指導いただきましたこと厚く御礼を申し上げます。ここに記して、深甚の謝意を申し上げ、発刊のご挨拶といたします。

大阪教区会議長 菴原 淳

「戦後70年の今、非戦を確かめる」 非売品
2016年4月25日 初版発行
講  述  山内 小夜子
発行編集 真宗大谷派大阪教区 教学振興委員会
事務局  大阪市中央区久太郎町4町目1–11 真宗大谷派大阪教務所内
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Last modified : 2020/04/28 17:56 by 第12組・澤田見(組通信員)