出陣学徒壮行式

大谷派学徒動員いよいよ戦争が非常に厳しくなってきますと、それまで学業を修めていた若い人たち、手に鉛筆と本を持って学び舎にいた人たちが、戦場に出征をするということになっていきます。一九四三年から最初は陸軍、その後、海軍への学徒動員が始まるのです。

この写真は、大谷派内の出陣学徒壮行式です。

正面に「法主」がいらして、出征される学生たちに、学徒出陣に際しての激励の言葉を掛けられている姿です。それまで手に鉛筆や本やお念珠を持っていたのですけれども、手に銃剣を持たされてゲートルを巻いて戦地に向かう、そういう姿でございます。

以前、修練道場長をされていた立野義正先生ってご存知ですか。立野先生もここにいらしたそうです。「わしもおったで」とおっしゃっていました。そのことを思うと、古い写真ですがそれほど昔のことではないということを思います。

同朋箴規(しんき)

一九三七年四月十五日、立教開宗記念日に際し「国家多端教界また多事のときに当たり 弘く真俗二諦の宗義を宣布して 皇運を扶翼す 国恩に酬答し給はんがため」、真宗門徒の生活規範として「同朋箴規」を制定した。 箴規の「箴」は針の意。「箴規」とは、いましめ、またはいましめ正すこと。

一九三七年四月十五日、立教開宗記念日に際し「国家多端教界また多事のときに当たり 弘く真俗二諦の宗義を宣布して 皇運を扶翼す 国恩に酬答し給はんがため」、真宗門徒の生活規範として「同朋箴規」を制定した。
箴規の「箴」は針の意。「箴規」とは、いましめ、またはいましめ正すこと。


戦争の最中、私たち宗門はどういう教えを教えとしていたのでしょうか。

同朋箴規という、三つの言葉の心構えが出されます。

一九三七(昭和十二)年、中国との戦争が始まる直前に『国体の本義』という、国民の教科書とされた本が文部省から発行されます。そして、盧溝橋事件の後には国民精神総動員という、国民の精神、心の中までも、動員されていくという運動が展開されます。
やがて一九三八(昭和十三)年には第一次近衛内閣により国家総動員法が制定され、国民の仏具も金属も供出し、体も供出し学徒動員されていくことに繋がっていきます。

私たちの宗門は、この一九三七年四月十五日立教開宗記念日に、同朋箴規という、三つの戒めという生活規範を制定します。

一、己を捨てて無碍の大道に歸す。一、人生を正しく見て禍福に惑はず。そして三つ目が、報恩の至誠を以て國家に盡す。こういう言葉が当時の真宗門徒の生活規範とされました。

この言葉が、このように額軸にされたり、もう少し小さなリーフレットやパンフレットにされてご門徒のところなどに届けられました。

報国法要

報国法要記事戦争で亡くなられた方々を追弔する戦没者追弔法要の他に、一九三七年に国民精神総動員運動が始められて以降、始まった法要が報国法要という法要です。国に報いる法要です。十月の国民総動員週間の間にお勤めされた法要ですけれども、これは真宗大谷派だけではなくて、本願寺派、高田派など、真宗各宗派が同時刻にお勤めされた法要です。阿弥陀堂での法要にご門徒の方々がお参りをされています。

この報国法要について、親鸞聖人が浄土真宗を立てられて以来はじめての特別の法要と報告がされています。
「立教開宗以来はじめての、特別法要とも云ふべき報國法要は、十月十六日午前十時より法主台下御親修のもとに、阿弥陀堂に於ていと荘厳に厳修された。朝来秋雨降りしきり参詣者が気遣はれたが、満堂立錐の余地なく、派内各団体は云う迄もなく、大、中女学校生徒堂に溢れ仏祖照鑑のもと、尽忠報国の赤誠を披瀝した。」というような報告がなされています。

報国法要で、その次にありますように「尚本法要に就いては、かねて御一派に於て計画中であったが、精神総動員週間に於て、真宗各派協定のもとに、同日同時刻に執行さるることとなり、本願寺派、高田派、興正寺派、仏光寺派、木邊派の各本山に於ても盛大に営まれたが、法要厳修の趣旨については、古賀参務より左の通り発表した。」(『真宗』一九三七年十一月号)とあり、続いて趣旨が述べられています。

戦争中の歴史を後から振り返る、そのことを色々と言うことはなかなか辛いことですが、そういう歴史を持っているということがございます。

「全戦没者追弔法会」を勤める

一九八七年の「戦没者追弔会」を「全戦没者追弔法会」と名称を変更する前後に、教学研究所で『資料・真宗と国家』という名前の資料集を発行しており、私は編集を担当してきました。

明治から戦争が終わる一九四五年までの大谷派教団と国家がどういう関係であったのかということを資料集にして、敗戦後まで発行し終わっています。戦争中の宗派の動向について、古い『真宗』を捜さなくても、その資料集を見れば大概のことはわかるようになっています。

過去の戦争に宗派が何をしてきたのか、その歴史を取り戻していく作業を七〇〇回の御遠忌から七五〇回の御遠忌の間に、宗門を挙げて一つの事業として取り組んできたといえます。ぜひ皆さまにもこの資料集を使っていただき、宗門の歴史研究がもう少し進めばとも思います。
(ただし、現在一部絶版)

先ほど、「戦没者追弔会」が、全と法の文字を加えて「全戦没者追弔法会」に名称が変わったということを少し申し上げました。一般的に、戦没者というと戦争で亡くなった軍人、軍属のことを指します。ですから、戦没者追弔会と言った時には、戦争で亡くなった軍人、軍属のみを対象とした法要なのですか?という問いが生まれます。広島、長崎で原爆によって亡くなられた方々や、都市空襲で亡くなられた方々、もしくは沖縄戦で亡くなられた方々。児童疎開の地で飢えて亡くなった子どもたち。この人たちも戦争で亡くなった戦争の被害者です。その人たちのことがその法要の中に本当に入っていますか、という問いです。

そして一九八一年に新しい『真宗大谷派宗憲』が制定されます。その『真宗大谷派宗憲』の精神に照らして「戦没者追弔会」という名称で良いのかという見直しがなされます。その結果名称を変更すべしという結論がでて、「全戦没者追弔法会」という法要に名称を変えます。

なお、この名称ではまだ不十分ではないかという意見が、全国各地から届いたということも聞いています。ともあれ、今から二十三年前の一九八七年に、このように法要の名称を変えたということはとても大きなことだと思います。

法要当日、当時の宗務総長は、名称を変えたことの理由を丁寧に説明しました。まだ戦没者の遺族の方々がお元気で、今よりも多くお参りをされておられた時期です。その方々が、なぜ戦没者追弔会から全戦没者追弔法要になったのかと、ちゃんと説明を聞きたいということもあったのでしょう。とても丁寧な説明をされています。(「資料」参照)

この時、大谷派は法要の名称を変更しただけではなくて、もう一つ大きなことをしました。それは、真宗大谷派としての戦争の責任を表明し、そのことに対する謝罪をしたわけです。誰に何を謝ったのかということを、この「全戦没者追弔法会にあたって 真宗大谷派宗務総長古賀制二」の文章(37頁「資料」参照)の一部を読みながら確かめていきたいと思います。

最初から三段落目ですが「この念願より「法」の一字を加えて追弔法会とし、さらに教法の核心であります如来の本願から「十方衆生」と呼びかけられている、その呼び声に耳を澄まして聞きとった意を「全」の一字に託して、本日ここに、全戦没者追弔法会を厳修することになったのであります。憶えば、太平洋戦争で命を奪われた日本の軍人、民間人は二百万人とも二百五十万人ともいわれます」。厚労省は三百二十万人といってますね。「なかでも、私たちが決して忘れてはならないことは、日本軍によって殺されたアジアの民衆が実に一千万人以上にも達するという事実であります。そして、二十世紀に入ってから世界中で、戦争によって人間が人間を殺した数は一億人ともいわれています。かくも大量に、罪の意識もなく、正義の名によって人間が人間を殺したのは人類史上はじめてのことであります。」と書かれています。

この資料の全文は、皆さん帰られてからでも是非とも目を通していただきたいと思います。今日は話の中で、お伝えしたい部分のみを紹介させていただきたいと思います。

続きまして(「資料」参照)「私たち浄土真宗の流れをくむ者は、殺し合わなければ生きてゆけない世界からの解放を『観無量寿経』から教えられてきました。そして、「敵、味方ともに助かる道を明らかにしてくれよ」という父の遺言に発起して道をもとめ、ついに浄土門の独立を決断された法然上人の伝記を何度も聞いてまいりました。ところが想い起こせば戦争中、わが宗門は戦争を〈聖戦〉と呼び「靖国神社ニ祀ラレタル英霊ハ皇運扶翼ノ大業ニ奉仕セシ方々ナレバ菩薩ノ大業ヲ行ジタルモノト仰ガル」といったのであります。そのこと自体が深い無明であり、厚顔無恥でありました。今そのことを憶うとき、身のおきどころがないような慙愧の念におそわれます。親鸞聖人は「『無慙愧』は名づけて『人』とせず」と教えられていますが、戦争は人を人でないものにしてしまうのであります。戦争は殺し合いなるがゆえに罪であり、その戦争を〈聖戦〉と呼ぶことは二重の虚偽であります。戦争に参加する者は被害者であるとともに加害者となるのであります。私たちは単に、「過ち」といって通り過ぎるにはあまりにも大きな罪を犯してしまいました。わが宗門は聖人の仰せになきことを仰せとして語ったのであります。私たち僧分の者はその罪をおもうとき、ただ皆様の前に沈黙の頭をたれる他ありません。かつて、仏弟子央掘摩がそうしたように、石もて打たれ、血を流しつつ、教法が照らし出す、明らかな批判と全戦没者の悲しみに身を曝して、真宗門徒本来の姿にたち帰ることのほかに今、私たちのなすべきことはありません。」

こういう言葉でもって真宗大谷派の「罪」を表明したのであります。

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Last modified : 2020/04/28 17:56 by 第12組・澤田見(組通信員)