今月のことば/由上義孝
- 2015年05月20日(水)1:26
如来大悲の恩を報じ
徳を謝すとおもうべきなり
『歎異抄』(聖典635頁)
東日本大震災の後、暫くTV界は一切の広告を控え、AC広告機構の次の詩を流しました。「〜確かに〈こころ〉はだれにも見えないけれれど〈こころづかい〉は見える〜〈思い〉は見えないけれど〈思いやり〉はだれにでも見える〜」(宮澤章二(行為の意味)抜粋)
映像として前半に電車で老人に席を譲るのを躊躇した青年が、後半では階段で手荷物を持つ老婦人を介添するシーンが流されていました。この映像と詩の放映に、当初全国から讃辞が連続したそうです(「良い詩だ」)。しかし一月以上連続して見せつけられると、今度は批難のメッセージが殺到したらしいです。(「もういい加減にしろ」)。大震災という出来事を前にして、「善き人足れ」というコピーが我々の都合心の裏表を照らし出したと言える現象です。
「今月のことば」は、〈滅罪の功徳〉を念仏に頼む異義への批判に続く文です。
念仏を滅罪の道具と考え続ける限り、私の生死の根拠は私の自力のものさしで計れる対象であり、念仏生活はそこへ上手くゴールインする計画道路です。しかしそんな自称の善人・自称の悪人は、罪への眼差しを覆い隠し如来に遇うことを自ら阻害していってるのです。
罪福ふかく信じつつ
善本修習するひとは
疑心の善人なるゆえに
方便化土にとまるなり(正像末和讃)
我々はどのような生き方をしていても、生殺与奪の現実の中で生き物の命を奪い縁を切り眼を覆って暮し
ています。その事実を気付かされ続けることが、そのまま命の恩徳への出遇いに繋がり続けるのです。
〜つみをけすまじきにはあらねども、〜つみのおもきほどをしらせんがためなり。(『唯信鈔文意』)
宗祖はここで「ほど」の表現を用いられます。「こと」なら限定的ですが、「ほど」は無限定・無涯底です。我々の我欲のつみ・都合心の深重は、どれほどの深さ・重さかは解らない。教えに触れるほど、念仏生活に照らされるほど自覚せしめられる。
常にいのちの親の願いに背を向けている我々に「モノノニグルヲオワエトル」「ムカエル」(「摂取」の宗祖の左訓)働きを絶えず懸けて下さる如来大悲のほどに頭が下がり続けるのです。
(由上義孝/所出・教化センターリーフレットNo293 2011/10発行)