今月のことば/松山正澄
- 2015年08月20日(木)1:20
実報土にはうまれずとなり
『唯信鈔文意』(聖典552頁)
お釈迦様は、すべての人が悟りを開けるようにたくさんの入口を説かれています。八万四千の法門です。しかも、誰もが意欲をもって修行できるように私たちの性質にあわせて善行・聞法を勧められています。
私たちの本質とは、強いものが勝つという一面をもつ娑婆(この世)世界で養われたものです。娑婆では、質的にも量的にもより高度なものをたくさん持つことが求められます。必然的に、自分を強くし高めるために知識や技術など善いものを手に入れようという習性が身につきます。
そんな私たちが、善行・聞法を積むなかで、やがて仏法が明らかになり、人と生まれたことや仏法を聞くことを喜ぶ者になるわけです。結果、案の定自分を高めようという私たちの本質から、それが自慢の種になったり、自分ひとりだけの喜びになったりするのです。その世界は懈慢界(けまんかい)とか七宝の獄といわれ、仏さまの世界ですが仏法に出会えず、本当に喜べることのない、仮の仏さまの世界です。
宗祖は、阿弥陀仏の光によって、仏道を行じ歩んでいる自分自身が、いかに傲慢で自己中心的であるかを気づかされるところにお釈迦様の深い心があるといわれます。
「ほんの少し世に知られると私の心波立つあぶないことです」、仏法を喜ぶようになったにもかかわらず、たたえられると自惚れる自分がいたことに気づかされる。また仏法を喜んでいるにもかかわらず周りの人との深い関わりを失ったあり様だったのでしょう。「悲しみと迷いを失ったすがたを善人という」と、気づかされた方もおられます。
お念仏は、方便の行をとおして、実は誰もが自分そのものに目覚め、同時に本当の仏さまの世界〈実報土〉に生まれるはたらきなのです。
(松山正澄/所出・教化センターリーフレットNo296 2012/1発行)