今月のことば/教化センターリーフレット2012/7

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信心をえたるひとをば 分陀利華(ふんだりけ)とのたまえり

『唯信鈔文意』(聖典556頁)

今月のことば 『仏説観無量寿経』には、「もし念仏する者は、当に知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」と、説かれています。

 この「分陀利華」とは、梵語のプンダリカの音写で、「白蓮華」のことです。大乗仏教経典の『維摩経』に「高原の陸地(ろくじ)には、蓮華を生ぜず。卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)に、いまし蓮華を生ず」とあるように、蓮華は清らかな水が流れる高原ではなく、ドロドロとした泥沼を生息地としながらも、泥にまみれる(染まる)ことなく、白い清らかな華を咲かせます。

 仏教ではそのことから、現実の娑婆世界に生きがならも、つまり、貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩あふれる世界に生きながらも、その世界に染まることなく、捨てることなく、必ず仏となる仏道を歩む存在こそ大切にしています。

 しかし、「卑湿の淤泥」に譬えられ、堪忍土ともいわれるこの娑婆世界で、煩悩にまみれることなく仏道を成就させることは至難の業です。だからこそ、そうした現実社会を生き場所にしている私たち煩悩具足の凡夫を救い、必ず浄土に生まれ仏と成らしめたいと誓われたのが、阿弥陀仏の本願なのです。

 その、ご本願を聞信し、目覚め、頷き、苦悩の現実から逃避することなく、「唯、念仏申す」身と成らせていただくことこそが「念仏者は無碍の一道なり」(『歎異抄』)といわれる所以です。まさに「いのち輝く」世界を賜るのでしょう。

 宗祖親鸞聖人は、『正信偈』に「聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華」(如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解念解の者と言えり。この人を分陀利華と名づく『真宗聖典』205頁)と念仏者を讃えられていま
す。

(所出・教化センターリーフレットNo302 2012/7発行)