いのちの底に/松井惠光

一、凡夫にかえる

よく「どうせ私は凡夫だから」という言葉をききます。凡夫なのだからこのような失敗をするのは当然だと、自己弁護の意味で「凡夫」という言葉を、いとも簡単につかっています。その場合の凡夫は「つまらぬ人間」という程の意味であるのです。

親鸞聖人が凡夫といわれるのは、二十年の修行の結果、よき人法然上人の本願念仏の教えを通して、見出された「罪悪生死の凡夫」「煩悩具足の凡夫」であったのです。丁度、娑婆という言葉が浄土にふれていわれるごとく、仏にふれて、仏に遇うことによっていわれた自覚の言葉であります。
凡夫のままではすくわれないといって、凡夫でないものになろうとする。少しでもよくなろう、少しでも偉くなろう、少しでも信者になろう、有難い人になろうとします。しかし、それは益々仏から離れていっていることになるのです。なれはしないのです。それをなれるように思っているのが、根の深い自力―はからい―の心なのです。

実は凡夫になるのです。凡夫が凡夫にかえるのです。罪悪生死の凡夫ですから、生涯、どんなことに出会い、どんな目にあうかわかりませんが「業報にさしまかせて」うけとっていくのです。そこに凡夫に安んじていける道が開かれてきます。

テレビで「スター物真似歌合戦」というのがあります。流行歌手が、他の歌手の真似をします。どれ程うまく真似ているようであっても、続きません。努力はしているのですが、すぐに自分の地声が出て、息切れがするのです。それにひきかえ自分の歌なら楽々として歌っています。

古いことですが、日露戦争のとき、沖禎介という人がスパイになって満州の地に潜入し、ロシヤの情況を内地にしらせていました。満州人と同じ服装をし言語、習慣に至るまで一分のちがいがあっても、この役はつとまりません。しかし、ある日突然につかまって、すぐに銃殺されました。それは朝、顔を洗うときです。水の少ない満州の地では、両手にすくった僅かな水に顔を廻して洗います。日本人は顔はそのままにして、両手にすくった水で洗います。いつも細心の注意をして、その土地の習慣どおりにしていたのですが或る朝、うかっと両手にすくった水で顔を洗いました。身にしみこんだ日本人であることの風習がでたのでした。かねてからあやしいと目をつけられていたものですから、すぐに日本人であることが見破られ、銃殺されたということでした。

自分が自分でないものになろうとして、どれ程努力しても、何かのはずみについ本当の自分が出てしまいます。凡夫が凡夫でないものになろうとする、それは常に緊張の連続であり、又常に構えていなければなりません。

三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなわで流転せり(p502)

とあります。まさに自力かなわで、流転をくりかえしていかねばならないのです。

いま、南無阿弥陀仏は自己発見の法であると、金子先生はいわれました。煩悩具足、罪悪生死の凡夫としての自己を発見させてくれるのであります。従って南無阿弥陀仏に遇ったということは、凡夫としての自己に遇ったということであります。自己が自覚されたということは、お念仏にあったということです。ところが、お念仏に遇っていても、凡夫であることを忘れてしまいます。凡夫の身から心が離れるのです。

聖人のお言葉にいかに「身」という言葉の多いことか。「自身は是れ 現に罪悪生死の凡夫」(p640)「愚身の信心」(p627)「行者の身」(p500・p503)「そくばくの業をもちける身」(p640)等々。誰がなんといっても、思いはなんと思っても、凡夫がわたしの身の事実であったのです。それを心(はからい)が身からはなれようとします。ところが念仏のところに凡夫にかえれるのです。念仏を忘れると、又、心が身からはなれて、ああなって、こうなってと、なれぬことを知らずに、なれることのように思いはかるのです。

凡夫が凡夫でないものになろうとする、それが念仏によって凡夫に引き戻されていく。その念仏を忘れるとき、又しても凡夫であることを忘れる。このようなことを繰り返していくのですが、しかし再び迷うことはないと、聖人は力強く教えて下されたのであります。

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Last modified : 2014/01/11 18:27 by 第12組・澤田見