二、出離の縁あることなし

出離の縁あることなし、とは『歎異抄』後序に出ている言葉で、善導大師のお言葉を引用してのべられたものです。いうまでもなく出離とは生死出離ということで、迷いの世界を離れ出るということですが、その縁がないのですから、すくわれる手がかりはどこにもないということです。きびしくきびしく自己を教法に照らされ、見つめたところからでてくる自覚の言葉で、他のところでは「地獄は一定すみかぞかし」とも、聖人はのべていられます。

自身は是れ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に沈し、常に流転してきたわたしなのであります。やってきたことはすべて雑毒の善であり、虚仮の行であり、悪業を以て自らを荘厳してきたわたしなのであります。ここまで深くわが身にあったところからでてくる言葉は、出離の縁あることなき身であることは当然のことであります。なんとかなるなどと思うのは、全く自惚れであって、なんともなど絶対にならないのです。

よく世間では「今になんとかなる」とか「そのうちによくなる」とか、そのような言葉で自らも慰め、人もなぐさめているのですが、よくなるはずなどなく、所詮はなんともならないのです。しかし、出離の縁あることなし、というこの言葉は、人間から出る言葉ではなくて、如来の大悲から出た言葉、如来のことばなのです。なんともならない、とそのままでおわるのではなく、なんともならんままでよかったと、如来のはからいに身をゆだねた大安心の境地なのであります。

久しく御縁のあった興正寺派末寺の住職が四十九歳でなくなりました。人の世話をよくし、底抜けに明るく、多くの人に好かれていたこの人は、こよなく酒を愛した人でもありました。最初は悪性の風邪かとも思っていましたが、年が改まってもよくならず、春になるほど悪くなって、衰弱はげしく、医師は肺癌と診断をしました。近くの仲良かった住職が見舞に行ったとき、げっそり面貌の変ったこの人は「えらいツケがきよった、ナンマンダブツ」と、ポツリといいました。

わたしはその言葉を聞いたとき、愚かにも意味をとりちがえたのです。酒の好きだったこの人に、あの店この店からツケがきたのだ、病気になったときいて、支払ってもらえなかったら大変と、請求書をもってきたのだと思ったのです。ツケは払わねばなりません。にげもかくれもできません。

ツケという言葉で表現したのは、業報ということであったのです。いまにして思えば、不治の病とさとったその人が業報として、受けとっていこうという覚悟が「えらいツケがきよった」という言葉になって出てきたのでありました。お酒の好きなこの人の心にくい最期のことばでありました。

やがてくるツケはどんなツケか。躍り上がって喜べるようなツケのくる筈はありません。それを聖人は「出離の縁あることなし」と、うけとっておられたのです。どれ程、嫌であっても、おそろしくとも、どうにもならないのです。なんとかなるだろう、そのうちによくなるだろうなどということは、何と思い上がりであったことかと思わずにおれません。

福井の竹部勝之進さんの詩に

明ケテモ
暮レテモ
罪バカリツクッテイル
コノ極重ノ悪人ヲ
真ノ仏弟子ト名ヅケテクダサルトハ
アリガタクテナミダコボレル
アリガタクテナミダコボレル

あけてもくれても罪ばかりつくってきた極重悪人、まさしく出離の縁のないものを、如来は真の仏弟子よと呼んで下さるのであります。出離の縁のないものこそ、如来が縁をかけて下されるのであります。自分で何とかなると、自分を過信しているものに、如来は縁をかけようとしても、かけることはできないのです。地獄におちたそこが大悲の手の中であったのです。

真の仏弟子と呼ばれれば呼ばれる程、頭の下がる私でしかなかったのです。いや、頭が上がらないのです。しかし、そこまでの如来の信頼に勿体ないことと「アリガタクテナミダコボレル」と、うたわずにおられなかったのでありしょう。

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Last modified : 2014/01/11 18:27 by 第12組・澤田見