三、心得開明・心塞意閉

地獄・極楽ということが問題になるときは、必ずといってよいぐらいに、あるのかないのかということがいわれます。それはどこそこの場所といった人間的なとらえ方なのですが、私の思っているようなあり方でないということを、まず知らねばなりません。もっとも、真宗では極楽というよりは、浄土という言葉をつかっています。私はかねてより「道」の問題であると理解しています。道とは道中、道ゆき、歩み、そこから生活ということをあらわし、私はどちらに向かって歩んでいるのか、地獄に向かっての歩みなのか、浄土へ向かっての生活なのかということであります。

親鸞聖人ほど「道」を重く見られた方はありません。生死出ずべき道、往生極楽の道、無碍の一道、二河白道、難行道、易行道等と、すべて道でとらえられています。往生ということも浄土へのたしかな歩み、目ざめた生活なのです。つまり光明土―浄土に向かっての生活は光りにつつまれた生活であり、摂取不捨の道中であります。どれ程、煩悩に狂わされることがあっても、流されることはないところから正定聚不退転といわれます。

船が停泊すれば碇がおろされます。碇がおろされていたら、その船は流されることはありません。信心の生活とは本願の大地におろされた生活といってよいでありましょう。それは光明に摂取された生活でありますから、底が明るいのです。

浄土にふれた生活、それを大経には「心得開明」といい、「耳目開明」といわれています。耳が開かれ、目が開かれるのです。浄土をうたがう人は、無眼人、無耳人といわれています。耳が開かれるとはどういうことなのでしょうか。言葉がきこえる、業の異なる相手の言葉が素直にきこえてうなずいていける、そこから心が通じていくのでありましょう。

曽我先生がかつていわれました。浄土は言葉がいらぬ世界であり、地獄は言葉の通じない世界である、人間の世界は言葉の必要な世界である、と。人間の世界で言葉が通じたならば、それは浄土の徳がはたらいているからでありましょう。

それに対して目が開かれるとは、事実のありのままが見えるということであります。私達はなかなかありのままがみえず、妄想によって事実を覆うてしまいます。何故こんなことになったのか、どうしてこんな目にあわねばならないのか、果ては何かの祟りではないかなどとおびえるのです。

福井県武生の正法寺さんといえば故宮谷総長さんのお寺ですが、戦後何年かの台風の時、境内の松の大木が倒れました。それが本堂の大屋根に倒れるか、土塀にでも倒れたら大損害を被るところ、境内の真中に倒れたものですから、台風一過して見舞にきた門徒の人たちは口々にいいました。
「矢張りアミダさんのおかげだな」
それをきいて宮谷さんはどなられたそうです。
「何がアミダさんのおかげだ、風のおかげだワ。都合よくいったことをアミダさんのおかげなどとうけとっていたら、大屋根にでも倒れたら、アミダさんの信心が吹きとんでしまうワ」
事実をありのままに見つめていけるのは如来の智恵のはたらきであります。

さて地獄への歩みとは、教典によれば「心塞意閉」とあります。地獄の原語はナラカということで、訳すれば「暗冥処」とあり、「無幸処」或いは「極苦処」ともあります。『浄土和讃』には三塗の黒闇とありますが、それは真暗闇であり、幸せを感ずることのできない場所であり、することなすこと苦しみの因になる境遇のことでありましょう。従って地獄に向かっている生活とは自然に、その心は塞がれ暗くなって、愚痴しか出ないあり方になることでしょう。愚痴の痴は智恵の病、智恵は光明ですから、光りが病んでいるということです。
よく幽霊が出るとか、出ないとかいわれますが、幽霊とは死にきれぬ相です。成仏することができないから幽霊になるのです。あんなことがなかったら、こんなことがなかったらと、いってもどうにもならない過去の出来ごとが愚痴になって、今の私の口の中に出てくるのは、実は幽霊ではないでしょうか。愚痴をいっている人は青い顔をして、暗い表情をしています。過去の出来ごとが成仏していないから愚痴になるのです。

今、念仏に遇うことによって、あの時あんなことに出あったが、あれはあれでよかった、あのことにあったから目覚めることができた、尊い御縁であったとうけとれるなら、あの時の出来ごとがすべて成仏したのであります。もうそこには幽霊の出ようがありません。しかし又、愚痴は出ることでありましょう。明るい愚痴が。出てくる愚痴が念仏によってすべて転ぜられていくならば、それは既に浄土に向かって歩んでいる証拠であります。

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Last modified : 2014/01/11 18:27 by 第12組・澤田見