悲願の構造/藤澤 隆章

発刊に寄せて/高原覺正

 藤澤兄にお会いしてから、もう二十年になるようですが、もっともっと前からの知己のように感じられてなりません。藤澤兄は、やんちゃな子供っぽいところがあるかと思うと、どこかで私のようなものをも支えてくれているような人ですが、大学教員として、研究の上でも、学生の教育においても、そういう面がある人柄であろうと尊敬しています。

 私は僧侶として、案外、他方面の人たちとお会いしてきたと思っていますが、科学者に出会ったのは、兄が初めてですので、経典の講義をしながらも―こんなこと、貴方の仕事のお役に立ちますか―と尋ねますと、兄は―役に立ちます―と必ず答えて、私の講義をはげまして下さいました。そんなことから宗教と科学、とくに親鸞聖人の仏教と科学は接点があるのだなぁと思いつづけてきました。

 大乗仏教、とくに親鸞聖人の仏教は、個人救済の法のみではなく存在の法、あらゆるもの(存在)の法・原理となるものですから、そうにちがいないと思っていましても、科学そのものを理解することができませんので、憶測の域を出ることはできなかったわけです。

 そうこうする間に、「いい先生が見つかりました」といって、東京工業大学の名誉教授の、その頃は長岡技術科学大学の学長をしておられました斎藤進六先生にお会いする機会を、藤澤兄が作って下さって、ついに『仏教と科学技術の出会い――仏教史観と科学技術史観――』(永田文昌堂刊)を生んで下さいました。

 これは、大へんな書物が生まれたものだと思っています。

 親鸞聖人の仏教は、生きているもの、流れているものをそのままとらえ、表現していこうとするものです。大乗仏教は、本来そういうものの筈ですが、仏教の祖師のなかでも、そのようなとらえ方を果しておられる方は少ないようです。

 こんなことを申しますのは、斎藤先生にお出会いしてから、科学や科学技術に関する書物をほんの少しばかりのぞいたのですが、科学の世界でも、生きているいのちをそのままとらえている科学者が少ないことに驚きました。

 そして、斎藤先生との出会いを作って下さった科学技術者である藤澤兄の偉大さを改めて認識し、感謝しています。いま、私たちは斎藤先生のご教示をいただきつつ、素粒子論を学んでいます。やがて、『仏教と素粒子論』を世に問うことが出来ればと願っています。

 少し話が変わりますが、私たちが発行しています仏教求道雑誌『願海』は小さな冊子ですが、現代の文化をとおして親鸞聖人の教えを学び直すことを願いとしていますが、発行後しばらくして編集に参加して下さった藤澤兄の賛助の力には、大きいものがあります。

 その『願海』誌上に、ながい年月をかけて執筆して下さったものが、このようなかたちをもって世に問われることになったことには、発行人として感慨深いものがあります。

 とくに、最初に書きつづけて下さった「悲願の構造」、すなわち本書の第一部から第四部までの、《記号にみる悲願》、《味にみる悲願》、《住まいにみる悲願》、《科学・技術にみる悲願》は、多くの読者、もちろん私をはじめ、が引きつけられて読んだものです。そして、いつの間にか科学技術の世界に引きづり込まれていったものです。

 この長い間、五ケ年余りの兄の努力があったからこそ、現在「仏教と科学技術」を小さな冊子の誌上で取りあげても、誰も不思議に思わず受け入れているのだと思っています。いや、私自身が育てられてきたことを忘れてはなりません。

 第五部の《宗教と科学の出会い》は、科学技術者として、みずからが問題としておられるところを説き、それにそって小乗仏教から大乗仏教への展開をあきらかにされているのではないかと思っています。

 最後に、斎藤先生の「技術の源泉を問う」という論文をいただいておられますが、これは斎藤先生が、二十一世紀に向かって、科学技術は如何にあるべきか、そのためには何をおいても、まず技術の源泉にかえらねばならないと叫ばれているものだと思い、斎藤理論の根本的なものだと受けとっています。

 この論文を本書の最後にのせられている藤澤兄の意図をおもいはかるとき、科学技術者である藤澤隆章工博のやるせない思いに胸つまるものがあります。

 ほんの少し、本書が世に出ますお祝いとお礼のことばを書かせていただくつもりでしたが、長くなり申し訳けございません。

 なお、本書の校正と割り付けは『願海』誌編集担当者の伊藤正善兄にお願いいたしましたことを申し添えておきます。

合掌 
平成四年一月十四日 高原覺正

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見