はじめに/藤澤隆章

 本書は昭和五十三年一月から五十八年七月まで「悲願の構造」と題して<記号にみる悲願>、<味にみる悲願>、<住まいにみる悲願>、<科学技術にみる悲願>を七十四回にわたって『願海』誌(主宰者 高原覺正)に掲載させていただいたものと、斎藤進六先生(東京工業大学名誉教授、元長岡技術科学大学学長)とのお出会いを通して書かせていただいた「宗教と科学の出会い」(『願海』誌 昭和六十二年一月~平成元年十二月の間三十三回にわたる)を加筆修正したものです。

 さらに、斎藤先生のお許しをえて、先生の論文「技術の源泉を問う」(未踏加工協会出版)も同時に掲載させていただきました。

 「悲願の構造」は生活に直接関係する物事、表現(記号、味、住まい、科学・技術)を通し、その意味や背景を尋ねることによって、それらの底を流れる人類の悲願の声を聞き求めたものです。一方、「宗教と科学の出会い」は、一般には科学・技術と宗教とは相反するものとして受け止められています。そのことに対する批判も含め、両分野の出会い、学び合いの必要性に重点を置いて書かせていただきました。さらに斎藤先生の論文によって、科学・技術の真の意味を受け取って頂ければと掲載させていただいたしだいです。本書が、読者のみなさま方への問題提起にでもなれば幸いです。ただし、引用文および参考図書名はそれぞれ「」、『』で囲んでいます。

 斎藤先生からは「すでにビッグバンに立ち会っていたいのちがある」という表現によって、いのちあるものの志向性(願)・宇宙意志について現代物理学の見地から教えていただきました。

 お釈迦さま(『大無量寿経』)によって凡夫が本当に救われる道(いのちある生き生きとした生活道)が開かれましたが、それを龍樹菩薩から天親菩薩へと伝承・展開されました。曇鸞大師は、天親菩薩の『浄土論』の注釈書として、『浄土論註』を著わされました。曇鸞大師はその時代の中国の生活の言葉を用いて、浄土教の流れにそって「他力廻向」、「本願力廻向」すなわち「往相廻向」・「還相廻向」の作用を開顕されました。

 我が親鸞聖人はそれらを受けて、『大無量寿経』を宇宙の原理・構造・展開として受け取られ、『教行信証』(広本)、『文類抄』(略本)に著わして下さいました。この両廻向は、いのちあるものの存在の法・道理(本願の道理)でありますから、科学・技術におきましても、あらゆる存在の道理となると言えますでしょう。

 平成二年の夏から三年の三月にかけての湾岸戦争により、世界中が振り回された感がいたします。また、東欧諸国やアラブ諸国の民族対立の状況も、毎日のように報道されています。テレビ報道や新聞報道だけでは、判断できない裏の問題が山積しているのでしょう。また、これらの問題の裏側には、宗教や思想の違いによる要因が見えかくれいたしております。ただ、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒の枠、すなわち文化の違いを越えて、人類と地球の今後を考えなければならない時代であるはずです。いまだ、指導者意識と民族意識、個々の主義主張から脱却していないように想えてとても残念です。

 それぞれの国、民族には、それぞれの歴史的背景や宗教があり、感情的にならざるをえない点もあるとは思います。しかし、民族を越え、国を越え、専門分野を越えて対話するための共通の場が現在要求されています。同じ時代に宇宙に存在し、共通の問題を抱えた人間そのものという立場のみが共通の場であると思います。

 親鸞聖人が、常に言われていますように「無善造悪の凡夫」、「罪悪生死の凡夫」、「煩悩熾盛の凡夫」(これは覚者からの言葉ですが)にたった場が、唯一の人類共通の立場であり、対話が可能な場であると考えます。エントロピー的自然世界(存在するものは必ず滅亡していかなければならない世界)に生命をともにする人類をはじめ、あらゆる動植物との共存を志向し、ともにネゲエントロピー的生命世界(感応道交の世界)に目覚めたいものです。

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見