(4)対話の場―聞く姿勢

「いわゆる言語には、音声言語(耳にうったえる言語)と文字言語(目にうったえる言語)とがあって、音声言語が直接的伝達に役立つに対し、文字言語は主として間接的伝達の役にまわる。文字が間接的伝達に役立つというその本来の使命は、おそらく最初は空間的な、いわばヨコの連絡のためのものであったろう。しかし、それはやがてタテの連絡、すなわち時間的距離をへだてての連絡にも役立つこととなった。
 いかなる人類でも、言語を使用していない者はない。しかし文字を知らない種族は数多くあった。かように音声言語は、人間にとってほとんど自然といってよいくらいであるけれども、文字はある程度の文化水準に達しなければ使用されない。その社会が間接的伝達の必要を感ずるくらいに複雑にならないと文字の必要はおこらないのである。」(岩波講座『日本語第八巻「文字」』より)

といわれていますが、人類の悲願によって生まれた音声言語も文字言語も、時代とともに変化して現代に至ったのでありましょう。しかし、現代は文化の高まりとともに、民族の交流がさかんになり、国際性が要求されている時代といわねばなりませんが、数学の記号や音楽の五線譜に書かれた音符記号などは、あらゆる国で共通に用いられている反面、音声言語も文字言語もそれぞれの民族で、異なったそれぞれの言語を用いています。これは、言語というものは、一時も欠くことができないためであろうと考えられます。その中にあって、特に日本語は特異なものであり、国際的に通じ難いといわれているのです。このときにあたって「言語は、何をうったえるべきものか」という根源に立ちかえり、民族感情の悲願をうけて、言語の未来を考えていかなければなりません。

 我々が日常に無自覚のままにつかっている言語・音声言語も、文字言語も、人類の悲願によって生まれてきたことを報告し、その「言語は、何をうったえるべきものか」という言葉の根源の問題に、少しふれたのですが、入谷敏男氏の『ことばの生態』(NHKブックス)を読みますと

「コミュニケーション(相互の意志伝達)によって、相互理解が生ずるのは、相手の立場と、自分の立場が互いに合流し、そこに共通な場ができることを意味するのであるから、相手の場の中に、自分をとけ込ませただけでは、そこに完全な場の共有がおこるとはいえない。同様に、相手の意図を自分の場の中に、とけ込ませるという作用が必要である。」

と説かれています。人間は、その根底に他の人や、他の物と深く通じあいたいという悲願を、すでに持っているものです。しかし、現代においてはあらゆる場面で向かい合っていても、本当の意志伝達・いのちの出会いが少なくなっているように思われます。だからこそなお、現代ほど対話協調がさけばれている時代はないと考えられますが、家庭をはじめ学校、会社、地域、社会など、それぞれの対話の場において、内容の乏しい空虚さを感じるばかりであります。真に、お互いが深く通じ合うためには、まず何よりも、入谷氏のいわれていますように「相手の意図を自分の場の中に、とけ込ませる作用が必要である」ことに気づかなければなりません。仏教で、この作用を〈聞〉の一字であらわしています。それは「聞く姿勢」であります。

(5)いのちある表現

 文字は、人類の、そしてそれぞれの民族の間接的伝達の悲願をうけて生まれてきたものであります。「文字言語を用いて、自分自身の感動したことや、その感じ取った世界を表現する」ということは、その意志を、多くの人々に、そして後の人びとに伝達したいという願いをもつからです。音声言語で表現する場合には、聞きてがすぐ目の前にいるために聞きての反応を、直ちに受け取りながら話しますから、言語は共同制作であるともいえます。相手の心の波動をよみとって生み出すとき、言語のいのちは直接的に相手に伝わるのです。しかし、そのいのちを文字として表現しようとしますときは、目の前に相手がいないために、自己のうちに自己を問い、自己に語りかけるものとなります。つまり、表面の自己と内面の自己の共同制作によって生み出すのです。だから、方向(思想性)や対象(世界性)がはっきりしていないと書けませんし、個人的であると表現の意味がない(客観性の欠乏)ということが、おのずから感じとられて筆が進まなくなってしまいます。しかし、その苦闘が重大な意味をもっているのではないでしょうか。何かを表現する場合には、とくに文字を用いて表現する場合には、その内容の歴史性・世界性・思想性・客観性を、また表現の内面の構造を、よく考えなければなりません。

 時代をこえて、私たちに感動を与える経典・俳句・小説などは、こうした苦闘をかさねられて内面の構造をつくされているものであることが感じられます。

 記号を通した人類の悲願を求めて、ここでは家訓を取りあげてみたいと思います。

「江戸時代の商家において、家訓が一般化するようになったのは享保期である。正徳・享保期には元禄時代のインフレ基調からデフレの局面に転じ、放漫財政から緊縮経済へとその建前が大きな転換を余儀なくされたものである。このような時期に際し、豪商の経営も大きな打撃を受け、不況の時代に対処するために、商業経営の慣行と理念が明記された家訓が制定され、経営を維持する体制が築かれたのであった。
 ゼロ成長時代といわれる現代において、経営多角の失敗による企業倒産の防止や、不況局面からの脱出をはかるためには江戸時代の家訓から与えられる歴史的教訓は少なくないように思う。」(作道清太郎『歴史読本』)

 現代においても社訓とか社是や、企業憲章などという形で、その会社の理念が表現されています。そのような家訓・社訓が生まれて来た意味を顧みる必要があるのではないでしょうか。家訓が脈々と受けつがれているキッコーマンの茂木会長は『願海』誌第二巻第八号の《仏教と経営》中でつぎのように語られています。

「私は、生意気に、いろんな新しい言葉を使ったりして発表しておるんですけれども、調べてみますとね、そういうことは(私が創作したと思っていた理念は、皆、家訓などの中に)あるんですよ。これは非常にありがたい。実に、尊いことだと思っております。」

 このような生命ある家訓は、血のにじむような実践の伝統と、伝統に対する謙虚な姿勢から生まれて来た悲願の言葉ではないでしょうか。

 音楽を表現するためにいろいろな記譜法が生まれ発達してきました。現在、世界共通の楽譜として五線譜といわれるものが種々の音楽を生み出しています。五線譜で表わされる音の高低、そしてさらに他の音譜記号とあいまって織りなされる音楽は、音の長短、強弱や微妙なニュアンスまで記号を通して奏でられるのであります。このような五線譜、音譜記号は、ヨーロッパで生み出されてきたものであり、時代とともに音楽理論はますます複雑、ち密に発達しているのです。それに対して日本の地で育まれてきた邦楽は、音楽理論というものはまったく生まれてこなかったといってよいと存じます。小倉 朗氏は著書『日本の耳』(岩波新書)のなかで次のように述べられています。

「ヨーロッパの音楽は、記譜法を確立するとともに、理論的体系をつみ重ねながら、調的な力の把握に知的作用の授けをかりたが、日本の音楽は調性をひたすら体験的なものとして感じ、伝承してきたのである。もともと『間』とか、『節まわし』とかいうものは、到底ヨーロッパ式の記譜法で捉えられるわけのものではない。師匠と差し向いで、その指や音の動きを、弟子は目と耳とで心得ていくのが本来である。」

 ヨーロッパ音楽においても、楽譜に現われない感情や作曲者の隠れた心情的背景は、良き師を通して伝承されるものと聞いています。

 現在、日本古来の伝統芸能や芸術が多くの人達のものとなりつつありますが、日本民族があらゆるところで求めてきました、「自然との調和」を願いつつ、ヨーロッパ文化との出会いを通して、どのようにこれらの伝統芸能や芸術を伝承していくかが、今後の課題であるように思われます。

(6)教行信証との出会い

 私は、真宗の寺院に生まれながら、父がなくなり、住職になるまで『教行信証』(親鸞聖人の著作、浄土真宗の本典)を手にすることさえも全くなかったのです。父の死を縁に、初めて『教行信証』の第一頁を開いたとき、その構成と数多の文献(引文)の深さに、ただならぬ感動を覚えました。その引文たるや歴れきの経典に始まり、時代を真に生きぬいた七高僧の論釈が綿めんと綴られています。それらの引文は裕に一千年以上もの年月を経たものであったろうに ・・・と。この感動が、私を「記号にみる悲願」という課題に取り組ませる動機となったのであります。

 さまざまの書物を通して「記号が生まれてきた背景」をたどり、「記号を通した表現のいのち」に出会い、「表現されてきたものを聞いていく姿勢」を私たちは、学び知ったのであります。時代を越え、空間を越えて未来の人類に「真理」を、「道理」を、「法」を伝承したいという人類の悲願によって生まれてきた、<記号>にこめられた深い意味を感得したようにおもえます。

 歴史を通して語りかけ、感動を与え続けてきた言葉や、音楽、絵画に私たちはもうすでに出会い勇気づけられてきたのです。そして今、出会いの中に生きているのであります。

 『教行信証』の言葉を通して、親鸞聖人と出会われた曽我量深先生(一八七五~一九七一)の深心なる感動が先生の論文を通して、現代の私たちの身に脈みゃくと伝わってきます。曽我先生の言葉を通して、現代に至って生き続けている親鸞聖人の『教行信証』にこめられた「願い」に、現代の私たちは感動し、また聖人のお人柄に出会わさせていただくのです。

 最後に正信偈(『教行信証』)のお言葉で締めさせていただきます。

本願の名号は正定の業なり
至心信楽の願を因と為す

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見