第1部 記号にみる悲願

(1)数学の世界

「いま、ここで考える<数学>とは、計算や証明などだけをこととする、限られた性格の学問ではない。哲学や思想や芸術などとも深い交渉をもち、人類の文化史に深く根を下ろした極めて壮大な学問である。『西洋文明とは何か』という問題を考えるときには、キリスト教の思想などとならべて、必ず考慮しなくてはならぬ大きい『思想の流れ』でさえあるのである。
 過去に創造された数学は、あくまで手本であって、むしろそのような体系を生み、方法を生み、理論を生むごとに、その苦闘の中から新しい一つの<数学>が誕生するというべきではないか。<数学>は何を創造したかではなくて、<数学>はいかに自らを創造したかが問題なのである。
 <数学>とは実にその奔放な創造の底に横たわるあるものである。世界の根底には数や式で表わされる理法があって、しかも、それは誰にでも捉えられる ・・・そのような信念こそ、あらゆる<数学>に共通な一つの根本精神のように思われるのである。」(村田全・茂木 明著『数学の世界』NHKブックス)

 <数学>という言葉を聞くだけで、アレルギー感を持つ人は少なくありませんが、人間は<数学>なくしては存在しないのであり、数学を通して宇宙の<秩序・道理>を探し求めているのであります。

 数学者は、それぞれの時代の文化とかかわりあいながら、つねに新しい<数学>を創造していくのです。この意味から<数学>は、人間が「創造しよう」として苦闘するところに生まれる、つねに新しい「秩序ある表現」であり、悲願が生み出すものであります。

「今日のように、自然科学が進歩し、また産業の異常な発達を見せた世の中にあっては、必然的に厖大な<数>を取り扱う場合が多く、『インド式記数法は』一日も欠くべからずものとなった。」(吉田 洋著『零の発見』岩波新書)

と言われていますが、その「インド式記数法」とは、0という記号を用いた位取り記数法のことです。たとえば、百二十三とか、千二百四とかと書かないで、123とか1204と書く位取りの記数法でありますが、これは、0を発見したインドによって見出された記数法です。すなわち、この記数法によれば、二つ(たとえば13と234)の数の大小を一目で判定することができるのです。また、単なる位取り記号としての0ばかりでなく、数としての0も深い意味をもち、いかなる数に0を乗じても常に0であるということを、インド人は七世紀の初めごろに書き残しています。ですから、

「エジプト、ギリシャ、ローマにおいては計算は多く算盤を用いておこなわれ、数字は、ただ計算の材料と、その結果とを書き記す役目しかもっていなかったのである。」(前掲書より)

 しかしインド人は、その単なる数字の中に「数とはなにか」とか「数は何をあらわすのか」などという疑問をもったのではないでしょうか。そうして、「0の発見」をとげたのでありましょう。これは、仏教の空思想などの影響もあったのではないでしょうか。

(2)記号―いのちの形象化

 <いのち>あるものは、その内面的なものを具体的に表現する場合には、文章とか、詩とか、楽譜とか、絵画とか、によって表現するのです。

 その場合、文章や詩の場合にはことば(文字)という記号、楽譜の場合には音符記号、絵画の場合には線とか、色とか、濃淡とか、広い意味での記号など、それぞれの分野における記号の組合せによって、意味ある一つのものを具体的に表現します。

 また、数学の場合においても、各種の数学記号や変数(ある集合全体やその部分を表わすための名前)を用いて、一つの意味ある定理や数式、方程式を表わし、具体的に、あらゆる自然の道理、事実、状態を表現しようとするものです。

 記号を通して、具体的に表現しようとする背景にはすでに、その底に流れる「いのち」を世界(空間)的、歴史(時間)的に伝承させたいという人類の悲願があるのではないでしょうか。そういう悲願がなければ、内面にとどめておくだけの非常に個人的なものとなってしまいます。

 口伝的、行動的伝承法を用いる場合もありますが、その場合には時間的な広がりを持った歴史性という観点に欠けるのです。

 ただ、記録的な伝承法の場合にも注意しなければならないことは、それらを引き継いでいく側にとっては、記録された記号のみからは、真に生きた<いのち>は継承され難いのであって、人と人との出会い、とくに、師との出会いを通してのみ、真に引き継がれていくものであることを痛感します。

 ものを伝えたいという意志が、ひとつの記号となってあらわれる背景には、<いのち>の願いがあるということを考えたいのです。つまり、記号自身もものそのもののいのちをもって生まれ出てきたものなのでしょう。

 人間は肉体的には、有限の生命しかもたない存在であり、しかしまた、おのれの生命の有限であることを自覚できる存在でもあります。したがって、意識的であれ、無意識的であれ、無限の生命への願望をもち、無限の世界へ生きんとする意志・意欲を内面にもちつづけている存在です。この人間の意欲・悲願が記号を生んだのであります。

 記号というものは、そうした有限を無限に展開していく人間の内面の願いをうけて、それぞれの時代、国、風土とのかかわりの中で、につめられたエキスとして生まれ出できた内面的意志・いのちを形象化(方便化)したものでありましょう。

 人類は、有限の生命の底を流れる無限の<いのち>の世界を感じとり、それを具体的に記号として表現することに(自利利他のために)いのちをかけるのであります。数学者は数学記号を用いた数式の中に、音学家は音符記号によって表される楽譜の中に、俳人は十七文字という限られた数の言葉のなかに ・・・。

 時代とともに人類が展開していくと同時に、記号は常に新しい意味をもって、記号のなかに煮つめられているいのちを展開していくものでなければなりません。

 数学上の「定理」の発見や、記号の創造も、ただ単に個人的な発見や創造ではなく、人類の苦闘を通した、ものそのもののいのちをうけて、大地の底から涌き出てきたものであることを知り、利他の精神(他の人々の役にたとうするこころ)に基づいて、記号による新たな表現をしていかなければなりません。

(3)言葉の響きと民族性

「よく街頭や電車のなかで、親たちが子供たちに『パパ』、『ママ』と呼ばせているのを聞くと、背筋が寒くなる。おそらく私が英語で時間でも聞こうものなら、夫婦で狼狽するに違いない。それなのに、お互いに『パパ』、『ママ』と呼び合っている。
 『パパ』、『ママ』という言葉には、英語では英語文化の中で長い間かかってつくりあげてきた『お父さん』、『お母さん』という厚みも重みもある。キリスト教、あるいはユダヤ教の伝統がつくった世界があるのだ。ところが、この言葉が道をたずねられても英語で答えられない日本人の口から出てくると、たんに『男親』、『女親』を意味する音声符号になってしまう。そして、この言葉には何もこもっていない。どのような言葉でも、歴史があればさまざまな連想を呼び起こすものである。連想はさまざまなことを照らし出す光である。
 日本は『言霊の国』であるといわれている。そして、漢語が入ってきてから、もう千数百年がたっているのに、漢語ではほんとうに心琴を掻き鳴らすことができない。ホンネをいうときには、やまと言葉(や方言)のほうが力を持っている。そして、家庭こそはホンネの世界である。横文字の言葉を使って、どうして、心を触れ合わせすことができるだろうか?」(M・トケイヤー著『日本には教育がない』徳間書店)

 民族の歴史とともに歩んできた言葉には、その民族の生命(いのち)・悲願がこもっているのであり、その民族の中で使われるときには、単なる表現・伝達の記号ではなく、響き、情感を伝えるものが含まれていることを、我々は、今あらためて振り返らなければなりません。

「国を異にする人びとの間で、意思が疎通していないことが明白になると、とかくお互いに『物わかりの悪い外人』のせいにしては、外国人と言うのは愚かで、不正直で間の抜けた連中であるといいがちである。」

 このように、異文化間のコミュニケーションについて、アメリカの文化人類学者であるエドワード・T・ホール氏は著書『沈黙のことば』(南雲堂)の中で述べられています。現代はまさに<宇宙船地球号>といわれるほど世界的視野に立って、民族の歴史、文化の違いを越えて互いに通じ合っていかなければならない時代であります。そこで、どのように異文化間の、意思の通い合うコミュニケーションをしていけばよいのでしょうか。

「我々は、日常たえず自分で用いているにもかかわらず、『沈黙のことば』は全くといってよいほど気づいていない。言語的言語以外に、たえず『沈黙のことば』すなわち<行動の言語>を用いて、真の感情を伝えているのである。」

と更に述べられています。この「沈黙のことば」、いわゆるその民族の歴史、政治、思想、習慣に根ざした、言語の内に語られている民族の感情・情愛・思想に出会っていくことによって、はじめて文化の違いを越えて互いに通い合うコミュニケーションが生まれてくるのです。世界的視野に立った、文化の出会いによって、また新たな文化を生んでいくのではないでしょうか。

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見