おわりに 藤澤 隆章

 寺の一人息子として生まれながら理科系を志望し、工学部に進学いたしました。父の兄弟たちからも、寺の子だというのにと、大変な反発がありましたが、好きな道を歩めといってくれた父の応援によって何とかその場はおさまりました。理科系に進むようになった最初のご縁は、小学校五・六年の担任であった杉本先生に出会ったからだと思います。先生に担任を受け持っていただいてから、算数や理科が好きになり、とくに算数の応用問題などを解くときは、夢中になってやっていたような気がします。幼いころの、良き先生との出会いは、一生の道を決める大きな要因になるものですね。

 工学部へ進んでからは〈宗教と科学のかかわり〉ということが、なんとなく私自身の問題となりました。寺に生まれた、ということが心のどこかでひっかかっていたのかもしれません。しかし、報恩講やその他の法要のとき、法話を何度となく聴聞いたしましたが、高度成長時代の影響か、科学・技術の進歩を否定される話が多かったものですから、余計にそのことが脳裏を離れなかったのだと思います。大学院にすすみ、二回生になりますと、すぐに、就職の問題にぶちあたりました。就職主任のせんせいから、日本電気へ受験するよう進めて下さったのですが、就職先が東京方面になりますので、ますます、寺から遠ざかることになってしまいます。すでに、高校二年生のとき、父は小学校の教員を定年退職いたしておりましたし、非常に悩みました。しかし、そのときも、父は「わしの元気な内はおまえの好きなようにしなさい」と励ましてくれましたので、決断することができ、日本電気にお世話になることになりました。

 『願海』誌(昭和五一年二月号~五二年二月号)で、一度対談をお願いいたしました小関彦郎氏は、そのときの直属の上司であります。小関さんからは、常にシステム感覚を養えと言われ、仕事の進め方、ものの考え方などシステム的に(系統だった、組織だった考え方)対処するようにと教えていただきました。

 入社してまだわずか三年にも満たない、昭和四六年の一月、父が倒れました。大阪の成人病センターで診察をしていただいたら、リンパ腺肉腫と診断され、長くて一年半という話でした。すでに結婚もしておりましたが、母からのその報告の電話があったとき、驚きとともに、父も私を東京へ出したことで寂しい思いをしていたのではないか、好きな道を進めとは言ってくれたけれど、ひょっとしたら、私がもう大阪へ帰らないのではと、そのように心配していたかも知れないと、何とも言えない感情がこみあげてまいりました。妻とも相談し、大阪へ帰ろうという決心がつきました。

 手がけていた仕事が無事終了するころ、丁度その年の九月末日で日本電気を退社し、母校の山下一美先生のお世話で、現在の関西大学に就職させていただきました。

 教師の資格(住職になれる資格)も当然取っていませんでしたので、次の年の夏休み、近くのご住職、砺波恵水先生にご教授願いながら、真宗学、仏教学などの勉強をし、教師試験を受け無事合格しました。我々家族が帰阪したこともあり、父も元気に退院し、週一度の通院を重ねておりました。翌年の夏、教師修練(住職となれる資格を取得するための研修)を受ける前頃から、父の容体が再度悪化し、本山にいく二日前に入院しました。修練中の半ばに、病院より電話があり、夕べトイレから病室に帰る途中倒れ、容体が更に悪化したとのことでした。修練中はどこへも出られないのですが、特別に許可をもらい、夜病院に駆けつけましたら、意外に父は明るく、心配いらないから修練に帰るようにと反対に叱られたぐらいです。修練が終わり、病院に報告に参りますと、父は「おめでとう、よかったなと」といい、その日は非常に調子もよかったのですが、その後、日毎に悪化し、一週間後の九月十二日にこの世を逝きました。何か、私が教師の資格を取るのを見届けるまで、頑張っていたかのようでした。

 翌月、住職修習(住職になるための研修)を無事済ませましたので、これから少しでも仏教・真宗の教学を学びたいと思い、秦博兄(『願海』同人)の紹介で高島洸陽兄(『願海』同人)のお寺で開かれていました「『歎異抄』の会」に出席させていただいたのが、住職としての出発でした。丁度、高島兄のお寺に寄せていただいたのが、昭和四十九年の五月だったと記憶しています。講師に、当時大阪教務所駐在の久津谷裕進先生がきておられました。その講義の中で高原覺正先生のお話が出ていたと思います。講義の後、先生から、この七月から『願海』という雑誌が発刊されます。この雑誌は他文化との出会いを通して、親鸞聖人の教えを学び直すということが中心課題です。ということをお聞きし、さっそく送っていただく手続きを致しました。その七月、秦兄のお誘いにより、西覚寺(願海舎滋賀事務所)の求道会に参加することとなりましたが、その朝、高倉会館(京都市)で高原先生の暁天講座があるから、それにも参加しましょうということで、朝五時に東大阪を出発いたしました。七時から先生の講義が始まりましたが、久津谷先生から伺っていましたとおり、きびしそうで反面あったかい感じがこちらに伝わってきました。先生とのお出会いの第一歩でしたが、「この先生についていこう」と、そのとき一瞬のうちに決断いたしておりました。

 当初、『願海』誌を読ませていただいても、仏教語が目に入り、チンプンカンプンでしたが、その願いだけは感じることができました。

 高島兄が第三巻(五十二年)の途中頃から『願海』のお手伝いをされるようになり、私もなんとなく、先生方の訪問先について行かせてもらいました。

 第四巻一月号(五十三年)の編集を名古屋でやるのでついて来ないかと高島兄に誘われるまま、参りました。そのときに原稿の清書などをお手伝いしながら、零の話や数学の話などをしていますと、突然、高原先生から、今話していることを原稿にして下さいといわれ、びっくりしてしまいました。後でこれが先生の人に原稿を書かかす手だとわかりましたが、そのときは驚きと、作文の点数が悪かった私に書けるのかという不安で一杯でした。しかし、先生の仰せですのでいやとも言えず、その場で原稿化致しました。その後、二月号(五十三年)からは「悲願の構造」、《記号にみる悲願》、《味にみる悲願》、《住まいにみる悲願》、《科学技術にみる悲願》と題して、五年半にわたって原稿を書くはめになってしまったのです。しかしながら、このことが本書出版の機縁となっています。

 学生時代から問題にしておりました〈宗教と科学のかかわり〉、それをいつも忘れず『願海』とともに今日までこさせていただきました。その間、国分敬治先生、ブラフト神父さま、東井義雄先生、足利演正先生、足利先生のご紹介でブルーム先生、ランキャスター先生など、また京都大学人文科学研究所におられました上山春平先生、また「相伝義書」との関わりで、近松暢誉先生など、素晴らしい先生方とお会いする機会を得ることができました。

 「遇善知識」の遇とは「たまたまもうあうことをえたり」という親鸞聖人のお言葉がぴったりのこの十七年です。

 六十年の秋だと思うのですが、三田工業(コピー機製造会社)に就職した卒業生から、三田出版会発行の一冊の本『科学技術の流れにどう対処するか』をいただきました。その中で斎藤進六先生のお言葉に触れ感動いたしましたので、早速、編集同人の皆様方にお見せしたところ、先生にお会いしてお話をお伺いしようということになりました。その当時、斎藤先生は長岡技術科学大学の学長をしておられました。何のコネもありませんでしたが、たまたまモータ制御の研究をしておりましたので、長岡技術科学大学に勤務しておられました赤木泰文先生とパワーエレクトロニクスの分野で何度もお会いし、お酒も同席して飲んだこともありました。そこで、編集の方に斎藤先生へのお手紙を書いていただき、『願海』誌を添えて、春の電気学会で赤木先生にお頼みしましたところ、快く引き受けて下さいました。学会が終わってから、赤木先生から関西大学にお電話があり、現在学長はヨーロッパに出張されていますのでご返事は遅れますが、秘書の方にお願いしてありますので、そのうちに連絡があると思いますということでした。

 斎藤先生にお出会いしてからの話は『願海』誌や本書にも紹介させていただいておりますので、皆様もよく御存知だと思います。斎藤先生の教えを受けながら佐藤純一先生や『願海』同人の皆さま方と「宗教と科学・技術のかかわり」について今後とも活発な討議をしていきたいと願っております。

 本書を発刊するにあたって諸先生ならびに諸兄のみなさまがたのご指導ならびにご配慮、ご援助に対し、深く謝意を表するとともに、代務住職を快く引き受けてくださっている高島洸陽兄に厚く御礼申し上げます。また、本書の校正・割付等は伊藤正善兄が引き受けて下さいました。ここに、深く感謝いたします。最後に妻・恵子をはじめ家族に日頃かけた迷惑を謝するとともに本書出版の手助けにたいし感謝する。

平成 三年十一月 藤澤 隆章

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見