(4)生物と人間

 このように、われわれがいまようやくバイオテクノロジー的に注目しだした生物のメカニズムは、人間がそれに着目し、それを解釈し理解する前から存在したとはいいながら、その存在の在り方は常に自己アイデンティファイを保つがためのメカニズムとして発展し続けてきたものであって、それは人間そのものの存在からいっても、まったく同一線上にする生物の在りようとしか考えられない。このようにして生物は発展してきたが、人間があらわれる前に、地球上に生を受けて、ある種になり、ある族になったものは99%以上も既に死滅して、われわれはわずかに1%以下の生き延びた系譜のなかにいま存在する。

 では、どうしてこのような状況が出てきたか。それは進化論でいう進化の道筋にうまく継続的にのったものと、あるごく狭い環境適応性のみが非常に発達したために、その状況が大きく変化したときに、もとの軌道に戻ることの繰り返しの許されない特化の軌道にのってしまったとの差である、というふうに概観できる。

 このようにして、生物はやっと人間のところまでたどりついたときに、生物の内部の環境適応性あるいは自己アイデンティファイというものを、もう少し明らかに、今まで内側に積み重ねてきたものを外側に向けてゆくことができるようになってくる。もちろん内側に築いてきたその生物の技術的なメカニズムを、生物が外側にあらわしたものとして、クモが巣を張ったり昆虫が土をまるめて巣を作ったり、あるいは鳥が木の枝や葉をもって巣を作ったりとするようなことも、本能という名でよばれる技術としてわれわれは見ることができる。私がここで改めて科学と技術を考えているのは、実は人間にあらわれた技術も、そのような本能性とまったく相違のない直線上にのっているということを強調したいわけである。たとえば人間は石をとって投げて逃げてゆく小動物をとり、あるいは木の枝をたたいていろいろな果物をとるということから、さらに習熟して、あるときは狩猟民族として生物たちに殺戮を加えて、その毛皮等を剥いて日常生活の内容を豊かにすることに使っていった。これはまさに人間がこのようにして技術的なものとしてあらわれたことを意味する。人間の大脳は他の類人猿には見られない飛躍的な発達があるにしろ、その大脳の飛躍的な発達を踏み台として、今まで生物が内部的に築き上げてきた技術的なものを外側に延長しようとしてきたこと自身は、まさに本能的な自己アイデンティファイと同じものであると考えることができる。

 このようにして生物そのものが技術的な存在であるということを理解するならば、今日までわれわれが築き上げてきた文明、それからさらに未来に飛躍してゆく文明が、基本的には技術的なものであるという立場に立って、もう一度見直し、将来を占ってみる必要があるのではないか。

(5)エロスと死

 たとえば、いま人間を悩ましている「エロスと死」の問題、これも実は生物がクローン的な自己分裂性では生きてゆけないと悟って雌雄が分裂したときに、はじめてあらわれた雌・雄の分化というのは同時に固体の死ということを宿命づけたものであって、そのときからわれわれは、固体が死滅しても、さらに永遠に伝わってゆく何ものかというものと、常に内在的に対面してゆかなければならなかったのである。人間は意識的に考える動物として社会生活をしだいに営むようになるが、そのときに基本的にはクローン的に永遠を望んで発展しようとするものから、雌雄がわかれたときの「エロスと死」がつきまとい、その「エロスと死」が一方においては詩を生み、さらに文学を生み芸術を生んできた一つの原動力となってきた。とするならばエロスを謳歌すると同時に死を悲しむ―それはわれわれが死を選びながら、それによってこそエロス的なものが生き長らえるということを見いだした生命それ自身の流れを、もう一度さかのぼって考えてゆかねばならない。これは現在に通ずる問題であるかも知れない。

 それでは生というものは物理化学的な条件が生体的な発生を可能ならしめる条件まで、どこかでひそやかに待っていたのであろうか。あるいは二、〇〇〇年前のハスの花が大賀博士によって発見されて今日もう一度再生したように、どこか生命の種というものが宇宙それ自身にあったのであろうか。このような問題をわれわれはもう一度考えてゆかねばならないだろう。すべての神学はきわめて単純に天と地がわかれ、海と陸がわかれる創生紀に隠り身(かくりみ)の神として立ち合っている。神話はまことに物理化学的自然が生まれる以前の隠り身の存在を仮設することから始まり、物理化学的な自然があらわれ、そのなかから生物があらわれることに立ち合うものとしての存在を仮設している。われわれはこの存在を神といったり愛といったりするが、私は実は愛とか神とかいう、たいへん使い古されてきた言葉でこのような存在を云々することは少しも考えていない。それは数学の法則を厳密に誰もが客観的に認識しうる言葉を選びながら、論理を選びながら、その存在を証明してゆくように証明すべきものであると思う。

 ここに述べたことは、その一つの試みである。決してそれ自身が満足なものとは考えていないが、おそらくビグバーンというものを仮設して宇宙論が成立するのと同じく、ビグバーンそれ自身に立ち会うものとしての生命(いのち)を仮設することも決して異様な仮説であるとは思えない。これから人間生活も実はどんどんと変わってゆくであろうと思う。たとえば武力を中心とする大きな集まりから原始的な家族が生まれ、大家族が成立し、しだいに分家、本家、親戚が出来、それがまた崩壊し、崩壊を通じて今や核家族となっているが、核家族そのものが核でとどまるかどうか。すでに物理の世界では核分裂がある。これは分裂するかも知れない。また核融合するかも知れない。そのとき、われわれは分裂した家族を異端として見るのか、異端ではなく、次の世紀の条件のなかでは分裂するものとして当然に迎えてゆくのか、これは次の世紀の人間のあり方の基本的な問題である。

(6)意識と志向

 なぜ家族がここまで同一の生活を送ってくる必然性があり、今後その必然性がなくなるかというのは、実は社会職能の文化の問題と非常に関係している。社会自身の現象を見ても、数十名程度の放浪狩猟集団であるバンド社会から出発し、農耕民族に変身し、農業社会が工業社会に変身して一次産業、二次産業が経済の中核となる。そのうちに今や一次産業、二次産業の人口吸収率が非常に減って、第三次産業的な業種が圧倒的に多くなってゆく。これは今われわれが想像しているよりも早く21世紀の状況となるであろう。このようになったときに、その社会を制約するところの生活の倫理はまったく違ってくる。しかしながら倫理を規制するものは実は論理である。論理はそのときそのときの社会の在り方を先導的にとらえて合理化する作用であり、基本的には人間といわれる生物が技術的に生きのび、そして自己自身を拡大してきたこの秩序を、いったん生物の外に持ち出したときに、社会秩序としてどのように再構成してゆくのかにかかっている。それ故、私は、そのときそのときの影響を受ける倫理という言葉を使わず、それに代わって人間があるいは生物そのものが自己同定し自己拡大し、そして生きつないでゆくために、われわれに与えられた論理性そのものを、もっと裸の姿で見つめてゆきたいと思う。そして、その論理的な機作を取り出すために生物はいろいろな感覚機能をもってきた。人間も五感をもち、その五感の中枢として、論理中枢である意識をもつ。唯識論のなかで、意識を超えたものとして未那識(まなしき)や阿頼耶識(あらやしき)というものが、すでに印度の古い教典あたりで述べられているが、この未那識、阿頼耶識などは、実は生物が生物の形をとる前にあった意識かも知れない。この意識は実は根本的に生物の前から存在し、物理化学的自然の成立に立ち会った意識かも知れない。眼蔵でいう「父母未生以前の我」かも知れない。

 ひるがえって、古来、宗教はこのような意識に「神」をたてたがる。そして、その現われ方として「愛」という言葉を使いたがる。しかし、すでに述べた理由で私は神と愛を排除し、たんに「意識」といい「志向」という。なぜなら、現象を記述するに適している人間の言葉というものは、この現象以前のものに適切な表現を持たないからである。

 たとえば神という言葉を用いれば、さまざまの宗教的イリュージョンによって視覚化され、ときに個性化された神がそこに画かれ、その映像は人さまざまに分化してくる。決して根源をさすことはできない。しかも、このような神は時空を越えて現われるが、不思議なことに時間は停止し、決して「意識」の根源的性質である能動性をあらわすことはない。

 私は「停止した時間」という奇妙な言葉を使ったが、一般に神と称するものの存在を、それぞれの読者なりに想い浮かべていただければ、私の意味することはわかっていただけると思う。常にわれわれの内にあって、能動的に働きかけてくるものと、このように個性化された神とは、いかに距たっているかがわかるだろう。

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見