(19)仏像の意味

 いままでは、大乗仏教の芽生えについて『大乗の仏道』より抜粋させていただき、他文化との出会いの大切さについて述べました。その抜粋文から、在家仏教が盛んになってまいりますと、仏舎利をおさめた仏塔の信仰や、アポロン仏のような仏像を崇拝する傾向が伺えます。仏像も当初は釈迦像のみであったようですが、大乗仏教が発展してまいりますと釈迦以前の仏教、すなわち釈迦をして釈迦たらしめている真実性が重要な問題となります。したがって、仏像も、阿弥陀仏や大日如来など大乗経典に出てまいります仏の像が、多く見られるようになったそうです。このように大乗仏教の萌芽とともに、形あるものを通した仏教への帰依が盛んになります。釈尊という地上の仏が、涅槃に入られた後、何百年も経過しますと、当然そのような現象が生まれてくるのでしょう。凡夫が仏教の対象となりますと、このように形に現わすことが必要になります。仏典では、これらのことを荘厳として語られています。上記の文献によりますと、大乗仏教では

「釈尊をして仏陀たらしめているその教法の真実・法性が法身であり、その法身が一切の人びとの上に慈悲として具現したものが色身であるとされており、曇鸞はこれを法性法身と方便法身とよんでいる。」

と述べられています。

 この方便の意味ですが「相伝義書」の第六巻『愚禿鈔私考』によりますと

「方便の外に真実もなく、真実の外に方便はなきなり。故に『正直を方と曰う』といえり。『正直』というは、少しもゆがみまがらず、すなおなるを正直という。衆生万差の機に随して、少しもゆがめずまげず、何れの機にも相応するをいうなり。少しにても仏の方に、わたくしがたたば、正直とはいわぬ。衆生万差の機の通りにあらわしたもうを『正直』といい、『方』という。
 『外己を便と曰う』とは、己を外にするというは、少しにても仏の自己あらば己を外にすると云うものにあらず、我本意とすべき処を隠して、衆機にかなう処が『外己』なり。これを『便』という。しかればいずれかこの方便を離れたることはなきなり。故に真実の真実たるは、方便にあらずばいたられぬなり。
 この方便より伝うて真実に入る、真実に入り畢ぬればその方便を全して即真実なり。」

 また、真実については、

「阿弥陀の御心より外に真実と名づくるものなし。仏願心の真実なり。」

といわれています。すなわち、方便とは如来からのお言葉であり、衆生を真実に引入させんがための如来の慈悲表現、働きであると受け取ることができます。したがって、仏像が誕生してまいりますのも、如来方便の働きといえるのではないでしょうか。

 科学技術は今日まで、形あるものの法則といいますか自然の法則を探求し(真理の探求)その法則を技術的に活用することにより、発展してまいりました。

 斎藤先生は、はたして形あるもののみを追求していってよいものか、と云う疑問を提出するために仏教を問題にされているのではないでしょうか。最先端の物理学である素粒子の話を我々にされるのも、そのような観点からだと推察できます。

 このことは短に、科学・技術だけの問題でなく、宗教においても大乗仏教が語る、真実と方便の関わりを現代において再吟味せねばなりません。

(20)大乗と小乗

 大乗仏教の勃興に際し、形あるものを通して仏教へ帰依する傾向が生まれて来た様子を紹介するとともに、方便と真実について「相伝義書」から学びました。それでは小乗と大乗と呼ばれるところの根本的な差異はなんでしょうか。その精神の違いについて学びたいと思います。

「その大乗仏教をして大乗仏教たらしめている最も根源的な精神はなにであったろうか。のちに、従来の仏教を『小乗』とよび、みずからを『大乗』と称するようになる大乗教徒は、どうゆう意味で『大乗』と称したのであろうか。もとより、大乗仏教と部派仏教との教理的相違は少なくないが、それまでの仏教を批判的に小乗とよぶ根本的な理由は、菩薩精神における自利と利他の問題にあったというべきであろう。大乗は、『他を救うことがみずからの救いとなる』という、自利利他円満の精神を基本としており、それが最も根源的な小乗との相違であるとともに『大乗』と称した理由でもある。」

と述べられています。また、

「仏伝によると、釈尊は六年間の苦行をすてて、ブッダガヤーにおいて正覚を成就したのであるが、その四週間におよぶ禅定三昧ののち、説法不可能の絶望に陥った。しかし、娑婆世界の主である梵天の再三再四の勧請によって、説法を開始することを決意されたといわれている。この四週間の三昧と梵天の勧請という仏伝の事跡が、重大な意味をもっている。それは梵天の説法勧請という神話的表現をとおして、一切の人々に対して釈尊みずからの正覚の意味を説き明かさねばならないとする意志と、その説法勧請が、一切の人々の願いであるということを、表明しようとしたものであるからである。娑婆世界の主である梵天とは、まさしく一切の人々の代表、すなわち全人類の代表であり、その代表者によって説法勧請がなされたということは、一切の人々が説法を求め願っているということの表明であり、いいかえれば『全人類が救済されなければならない』という要請であった。そして釈尊の胸のなかに起こった説法不可能という絶望には、正覚の真実を説き明かすことへの本質的な困難さが表現されているとともに、正覚の真実を求めつつ、それに背をむける人間の現実が表明されているといえる。
 そのことはまた、『無量寿経』に説かれるごとく、『為衆開法蔵 廣施功徳寶』という開かれた世界宗教としての意志を表示したものといえよう。」(『大乗の仏道』)

と述べられています。

 このように大乗が求めたのは、自覚の仏道にとどまらない覚他の仏道の実現であったといえます。この自覚覚他の仏道が、浄土教に至っては往相廻向、還相廻向へと展開されるのであります。

 松本梶丸兄のお寺(本誓寺)にお伺いしたとき、蓮如上人以前に用いられていたご本尊(光明本尊と呼ばれているもの)を見せていただきました。以前に、五箇寺の慧光寺様でも同じようなご本尊を見せてもらったことを記憶していますが。

 それは中央に九字名号、右に十字名号、左に六字名号があり、その名号の間に釈迦、弥陀二尊の絵像が描かれております。その上、両わきの名号の上には後光とともに印度、中夏、和朝の祖師の絵像が配置されているものです。

 これは大乗仏教の菩薩道精神の働き、行として、地上の事実としてご本尊に表現されたものと受け取ることは出来ないでしょうか。現在では、聖徳太子とともに七高僧の絵像は、余間に安置されていますが。

(21)仏教伝来の道

 さて、大乗仏教と呼ばれるところの大乗の根本精神について述べました。ここからは、その大乗仏教がどのように中国、韓国を通して日本まで伝わってきたか、田村圓澄先生の『仏教伝来と古代日本』(講談社学術文庫)によりながら学んでゆきたいと思っております。まず、先生は仏教伝来の道は、つぎのような方向をもって伝来してきたと仰っています。

「『仏教伝来の道』という場合の仏教とは何か、それは仏像と経典と、修行者つまり僧侶の三つが具体的な内容ではないかと思います。私は仏教伝来の道は、ある方向をとっているように思うのです。
第一は、仏教が伝わる方向というのは、ひとの住んでいるところに伝わっていったということです。
 第二は、その仏教は国境を越え、それから民族を超越して、山を、川を、あるいは海を渡って伝わっていった、つまり超民族的、超国家的なひろがりをもっていた事実です。
 第三に、仏教の伝わった道は、仏教伝来以前に道があって、仏教は既存の道を利用して伝わったということです。その道は商業・交易の道であり、あるいは軍事・政治・外交の道であり、人が往来している道であります。
 第四として大事なことは、古代の仏教はつねにその国、都を目指して、伝わっていったということです。当時の国の都、つまり政治の中枢、すなわち王権を目指して仏教が伝えられていったという事実を指すのです。」

 このように仏教は、当時の国の都を目指して伝来したことになります。当時の政治の中心である都、すなわち王権を目指して何故仏教が伝わってきたのかと、いう疑問が涌いてきますが、先生も疑問に思うと仰っています。先生は

「仏教は直接、一般の民衆の布教を目指してきたというわけにはいかないということです。一般民衆に呼びかけるかたちで、仏教が伝わったというのではなくて、その当時の皇帝、あるいは国王なりの王権を目指しているのですから、そこに、おのずから当時の仏教の性格、もっといえば、民衆というものが除外されたかたちの仏教の性格を考えなければならないように思います。
 元来、仏教といえば出家、つまり世間をでることが前提になっています。出家というのは出世間、すなわち世間を捨てることです。世間を捨てるのですから、当然そういう政治権力というものからは、なるべく遠ざかるというのが仏教のたてまえであるように思いがちですが、そういう出世間の仏教が政治権力のほうを目指して伝わっていったという皮肉な事実が、ここで知られると思います。」

と述べられ、また

「仏教伝来の道というのは仏・法・僧だけではありません。仏・法・僧もその一部であるところの文化製作者集団がパミールを越え、砂漠を渡って中国大陸に来たのであり、さらに朝鮮半島、それから日本に来たというように考えるべきだと思います。仏教は宗教ではありますが、実際にこの地上に根をおろした仏教は、宗教というよりも高度の総合文化でした。仏教の伝来と受容には、文化製作者集団というグループの存在を考えねばならないと思うのです。だから仏教の伝来というのは、たんに僧侶だけがきたのではなくて、いま申したようなさまざまな文化製作者集団がきたことを意味します。」

と言われています。足利先生がご存命中、仏教は多くの文化も同時にもたらしたとよく言われていたことを思いだしています。

 日本の企業はオイルショックや円高の苦境を乗り越え、徐々に高景気となってきたことが学生の求人活動の活発化となっています。日本が生き抜いていくためには、技術者集団が是非とも必要だと言う認識は、どの企業も一致しているようです。ところで、私自身、以前に比べて二倍の円高を克服した企業、およびその社員たちに敬意を表するとともに、驚きでいっぱいです。この克服の理由として考えられますことは、企業の合理化努力はもちろんのことですが、未だ終身雇用制度と社員の強い愛社精神とが残っていることが、一つの大きな理由だと思っています。仏教の念仏精神と言えるかもしれません。

 さて、仏教の伝来について考えておりますが、仏教は都会、王権を目指して伝来した歴史がある。また、単に仏教の教えばかりでなく、仏教美術や建築などとともに、それらに携わった芸術家集団など、総合仏教文化として伝わったことを学びました。そして、その伝来の道は商業・交易の道であり、政治・外交の道であったことです。このことは単に、当然、仏教ばかりでなく、一般の文化および科学・技術においても同様であります。それは、すべての文化、文明は人類の生活と深く関わっているからです。そうでないと生きた文化とはいえません。ただ、そのとき伝来した文化は、受け入れ側の国に既に存在している文化の影響を必ず受けます。また、たとえ当初、王権が強制的に導入したものであっても、ときが経ちますと自国の文化として民衆のなかで消化されていくようです。

「中国には、諸子百家といわれるように、多様な思想、高い芸術が古くから栄えていた。そのような固有の文化のなかに仏教が新たに伝来したのであるから、当然、さまざまな面で融合や反発を繰り返さざるをえなかった。そして、儒教や道教と共存して、互いに影響しあうなかで、仏教の本質をより明確に表現する必要から、多くの点で独特の展開をすることとなったのである。仏教が伝来し定着するのには、多くの外来僧による直接の教化があったことはいうまでもないが、それにもまして、仏典の漢訳に負うところが大きかった。長い歳月をかけて、実に膨大な量にのぼる仏典が翻訳されており、人々はそれらの漢訳の仏典にもとづいて思索や実践を重ねてきたのであった。インドでは、教義や思想の発展段階に応じて、それぞれの必然性のもとに仏典が成立したと考えられる。しかし、中国への仏典の流入は、必ずしも系統的ではなく、訳経僧たちの一方的な活躍に依存しなければならなかったので、教説の受容に混乱が生じることは避けられなかった。したがって、そうした混乱のなかで仏典の研究が進められ、解釈が深められていった。中国の仏教は、このような諸条件のもとにありながら、求道心の篤い多くの漢人僧の手によって育てられてきた。」(『大乗の仏道より』)

(22)仏典の漢訳

 仏典が翻訳される重要性と中国の仏教導入の特徴について述べましたが、もう少し詳しく翻訳されていった時代経過を説明したいと思います。

「後漢(二五~二二〇年)の末ごろから、西域僧が相次いで来朝して仏典を伝訳したが、その最初が安世高であり、ついで支婁迦讖であった。安世高は、安息国の太子として生まれたが、出家して修道を志し、仏教の教義理論である阿毘達麿と、三昧実践を説く教典に精通したと言われている。後漢の建和二年(一四八)ごろ洛陽にきて 『安般守意経』など三十余部の経典を漢訳した。これらはいずれも、その出身地に栄えた小乗系の阿毘達麿や禅定に関する経典であり、阿含系統の経典であった。
 ややおくれて、大月氏国出身の支婁迦讖が洛陽に来て『道行般若経』、『首楞厳経』、『般舟三昧経』などの大乗経典を漢訳した。『道行般若経』は『空の思想』を伝えた最初の経典であって、老荘の『無の思想』と関連しながら発展する中国の般若学の基礎となった。また、『般舟三昧経』は阿弥陀仏を観想することを説いた経典で、はじめて浄土思想が伝えられたことになり、中国におけるその展開に大きな影響をもつこととなった。
 このように、中国の仏教は、最も原始的な教説を伝える初期の経典と、これを大きく発展させた大乗経典とを、ともに等しく仏説として同時に受け入れることとなったので、その混乱を解決する必要がはじめから課せられていたのである。
 安世高と支婁迦讖に続いて、インド・西域から、僧たちがつぎつぎと来朝して訳経に携わり、また漢人のなかにも仏典の漢訳に参加する者が出るようになって、仏教は次第に中国の思想界とのかかわりを深めていった。三世紀になると、長い安定を誇った後漢の政治力も弱まり、群雄がならび起こって、いわゆる三国時代がはじまった。これを契機として、文化・思想・宗教などにも大きな変革が起こり、それに応じて、仏教もますます活況を示すようになった。
 華北において、洛陽を都として建国した魏の国では、康居から来た康僧鎧が訳経に活躍した。浄土教の正依の経典として重んじられている『無量寿経』も、このとき康僧鎧が漢訳したと伝えられているが、その史実については古来議論が重ねられている。
 同じ頃、外来僧ばかりでなく、漢人僧の活躍が始まり、朱子行が漢人としてはじめて授戒の作法によって出家し、最初の講経者となって、もっぱら『道行般若経』を講じたと伝えられている。しかし、しばしば意味の明らかでない箇所に出会ったので甘露五年(二六〇)、経の原典を求めて西域への旅に出た。干○にいたった朱子行は、ようやく『般若経』の原典を得て、これを使者に託して洛陽に送らせた。この経はのちに干○から来た無羅叉によって西晋の元康元年(二九一)に『放光般若経』として漢訳されている。朱子行は故国に帰ることなく没したが、これが西域への求法の先駆けとなり、それ以後、中国から西域・インドへ法を求めて旅立つ者が相次いだ。なかでも、東の法顕、唐の玄奘などが有名である。」(『大乗の仏道』より)

 西域といいますと詳しいことは存じませんが、天山山脈の麓から東方、有名なタクラマカン砂漠のあたりをさすのでしょうか。あるいは現在のアフガニスタン北方、カスピ海近辺までを含めるのでしょうか。それにしましても、安息国や大月氏国などはカスピ海よりです。娘の世界地図を見ますと直線距離にしまして中国よりおよそ五千キロメートル以上あります。想像以上に、当時の文化交流の盛んであったことや、これらの漢訳僧たちの熱意、意欲の深さが伝わってまいります。

(23)中国仏教の興隆

 後漢の頃の中国における仏教経典の翻訳事情とその後の簡単な流れについて述べさせていただきましたが、つぎに後秦の時代に活躍された鳩摩羅什についてお話したいと思います。

「外来僧の活躍と、仏典の翻訳によって、仏教が中国の社会に受け入れられ、定着のきざしを見せ始めたころ、中国にいたり、中国仏教の発展に大きく寄与したのが、鳩摩羅什(三五〇―四〇九)であった。
 大乗の論師としての鳩摩羅什の名声は、やがて長安にも達した。当時、長安を支配していた前秦王の苻堅は、国師と仰ぐ道安が鳩摩羅什の招聘を熱心に願っていたことと、国策上の必要から、鳩摩羅什を迎えるために、将軍の呂光に大軍を与えて亀茲国に遠征させた。亀茲国を攻略した呂光は、鳩摩羅什をともなって帰国の途についたが、長安では革命が起こって前秦が滅亡したので、途中の姑臧にとどまって後涼国を建てた。そのため鳩摩羅什はここに抑留されることになった。しかし、長安ではやがて姚萇が後秦国を建て、その子の姚興が後涼国を討伐したため、鳩摩羅什は長安に迎えられることとなった。このとき鳩摩羅什は五十二歳で、故国を離れてから十数年を経ていた。鳩摩羅什は『般若経』、『維摩経』、『法華経』、『阿弥陀経』など、主要な大乗経典を翻訳したほか、『中論』、『十二門論』『百論』、『大智度論』、『十住毘婆沙論』など、龍樹の中観系の論書をはじめて中国に紹介し、中国における仏教研究に明確な指針を与えた。なかでも『般若経』については、小品系と大品系の両経をそれぞれに翻訳しており、後漢の支婁迦讖、西晋の無羅叉、同じく西晋の竺法護などによる翻訳では探りえなかった般若思想の深さと大きさを伝えた。また、『維摩経』も、般若の空の思想を劇的な構想によって表現する経典として呉の支謙の漢訳以来親しまれていたが、鳩摩羅什の重訳によって、その空の思想が一層鮮明となり、中国における大乗般若学の形成に重大な影響を与えた。
 とくに『大智度論』を翻訳したことは、これがインドにおける代表的な大乗思想家である龍樹による本格的な『般若経』の注釈であったために、中国における『般若経』の解釈に決定的な影響をおよぼした。これによって、『般若経』と『維摩経』、『法華経』などとの思想的な関連が明らかになり、もはや老荘の無の思想をもって仏教の空の思想を論議することが許されなくなった。また、『法華経』も、すでに竺法護によって漢訳されていたが、鳩摩羅什の重訳によって改めて一乗の教えが明確となり、この経の研究がにわかに進展した。このことによって、『法華経』が、その後の仏教研究の主流を占めるにいたったといっても過言ではない」(『大乗の仏道』より)

 このように鳩摩羅什は、中国仏教ひいては日本仏教におおきな影響をおよぼした人です。私もお布施をいただくためによく『阿弥陀経』を読誦します。しかし、今まで翻訳者のことなど考えたこともありませんでしたが、歴史を振り返ってみますと、翻訳者のご苦労がひしひしと感じられます。と同時に、翻訳者の仏教における位置も再考しなければなりません。

 田村先生によって、仏教は王権を目指して伝来したことを学びました。しかし、同時に仏教は権力によって多くの迫害も受け、経典、論釈も何度か焼かれたことでしょう。現在、印刷物やコピーが世に溢れた生活をしている我々は、このようなご苦労をなんとも思わなくなっています。

(24)東西文化の出会い

 最近のテレビ報道や新聞紙上は、幼女誘拐殺人事件やボイジャー2号の海王星探索の記事など、身近な事件から遠い宇宙の話まで、情報化社会を裏付ける内容でにぎわっています。二十一世紀まであと十年です。宇宙船地球号、いや日本丸はこの間どのような船旅をしようとしているのでしょうか。目的地もはっきりせず舵もなく、船長も決まらないで、乗船客は事件がおこるたびに一喜一憂しながら船旅を続けるのでしょうか。

 文明開花期からどのように科学・技術が受け入れられ発展してきたかを辻哲夫先生の『日本の科学思想―その自立への模索―』によりながら、導入期の翻訳事業の意味と文化的背景を中心に述べ、一方仏教においては、大乗仏教への発展と中国への伝播・翻訳過程について、『大乗の仏道』を拠り所に学んでまいりました。日本への仏教の伝来については省略させていただきますが、仏教が百済から日本に伝来しますのは、紀元後六世紀になってからであり、それ以後、朝鮮半島および中国との仏教ならびに経済、政治の関わりは切り放すことの出来ないものとなります。大阪に百済という地名があることからも、その交流の深さが偲ばれます。

 仏教および科学・技術が日本に伝来し、消化されてきた過程を翻訳という一側面から考えてまいりました。一つの文化、文明が伝わる背景には、翻訳者のご苦労はもちろんのこと、ある程度、その国でそれらが育つためには、異国の良き指導者にも恵まれないと育ちませんし、また受け入れ側の思想的、文化的素地もないと消化することが出来ません。

 ただ、静かに考えてみますと日本は科学・技術も仏教も、両者とも受け入れ側であります。そして、それなりに両者とも消化し、発展してきております。東西の恩恵を一番被っている日本が二十一世紀に向かって、世界に対してどれだけの役割を果たすことができるかが今後の問題と思います。

 『願海』誌の平成元年七月号において佐藤先生は訪中記のなかで、象形文字と表音文字(アルファベット)文化圏について比較されていますが、その中で

「自然を人間が一まずは切り離して、理論的に解析することが客観的な理解には必要であろう。これは表音文字、アルファベットによる思考である。しかし、一歩進んで、世界あるいは自然の中に生きている人間としては、ある一面の切り口として理解された自然ではなく、自らの存在をも含めた、トータルな存在しか実存していないのである。これはいわば象形文字的な世界をもつことに対応する。(中略)さて、日本をこういった面で把えると、漢字と仮名を混ぜている点では、今後面白い位置にあるといえる。即ち、象形文字の中国とアルファベットの欧米の間にあるのである。ここにも欧米の科学・技術をベースにここまできた日本が、中国の現代化のために協力することのできる重要な可能性が秘められていると思われるのである。」

と述べられています。

 また、玉城康四朗先生(東京大学名誉教授)は『仏教の根底にあるもの』(講談社学術文庫)のなかでつぎのように述べられています。

「人類社会の未来図はどのように描かれるであろうか。これはもとより一朝一夕にできることではない。そのためには、東西思想・南北問題の辛抱強い交流がおこなわれねばならない。そして先に論じたごとき、東の主体性と西の対象性について、それは人類の根幹的な二つの態度であることを、相互によく納得し合わなければならない。そして第三の立場への創造に向かって、できるだけ多くの東西の人々が協力し合わなければならない。そこでは、つねに前進していく創造力と、つねに身を省みていく寛容の心が生まれてくるであろう。」

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見