技術の源泉を問う/斎藤 進六

(1)科学と技術

 まず科学技術と一口でいわれるが、これはわが国の歴史的な宿命をある意味では負うている表現である。なぜならば明治の開国以来、すなわち日本がヨーロッパの文明と接触したところの状況に思いをはせてみると、すでにそのころヨーロッパの世界では科学と技術とが手をにぎり、当時の後進国家日本にとっては、あたかもその両者は緊密にお互いを支え合う一枚岩のように見え、しかも富国強兵策を焦眉の急とする明治政府は、技術をとりいれることに急であって、科学をたんに技術を支える学問としてとりいれてきた傾向がある。

 その一つのよい例は、工学部が大学のレベルで創設されたのは、わが国が世界でも最も早いとされているが、それは当時のわが国のたいへん意欲的な姿勢を示すと同時に、科学と技術を足して二で割って工学としたような趣を払拭しえない。なぜならば、さらに思いを二、三百年前にはせて、ヨーロッパがひどいペストの流行から立ち上がって、激減した労働人口で社会生活を支えるために、技術を真剣にとりあげだしたところ、さらにそれが進んで力織機やワットの熱機関が発明されたころを考えてみると、工業用の材料の主役は木材で作った水車などから短い真ちゅうの時代を過ぎて、軸馬力が増大するに従って鉄がとりいれられてきた。しかし、そのころの鉄は木炭製鉄であったし、また蒸気機関もそれほど高い温度に耐えうる材料を必要とはしなかった。しかし熱を利用した機械は、ワットの蒸気機関で象徴されるように、1700年代の後半に英国で始まった産業革命をもっとも際だてて他の歴史時代と区別するものである。それまでは木が主要な工業材料をになっていたように、熱を使うということはほとんどなく、そのために産業革命前夜のわれわれの知見は、ごくわずかな流体力学の知識と、歯車、カムなどのメカニズム、機構学の知識しかなかったといってよい。産業革命に立ち向かったとき人間はいろいろな望みを新しい熱機関に託したものの、それはいろいろな科学的な法則性と矛盾して一進一退をくりかえしたに違いない。たとえばニューコメンの蒸気機関はそのままでは膨張行程をとることができなかったために、中に水を吹き込み冷却効果で蒸気圧を急速に低下させた。エネルギーの多くの損失にもかかわらず、そのような妥協点を熱力学との間に認めてゆかなければならなかったし、それを発展させてワットの蒸気機関は、その水吹き込みをコンデンサをもって置き換えた。

 そして製鉄は木炭製鉄からコークス炉製鋼に変わり、さらに工業的な温度が上昇を続け、材料は次第に耐熱性を要求されて、まずいろいろな鉄合金が工夫され、さらにコバルトベース、ニッケルベースがあらわれる端緒を作ったにしろ、われわれの今日でいう熱力学もほとんど知らず、またラボアジェーがあらわれるはるか前である時期において、化学の元素すらほとんど知られていなかった。すなわち産業革命を推進したのは技術的なマインドであり、それが思惑通りにならないときに、その思惑を阻む相手として、その阻むものをよく知り研究すること、そこから科学が実は生まれてきたわけである。すなわち技術的な推進力を阻むものとして、科学の法則性があらわれ、その法則性を知ることによって、もっと巧みに法則性を使いこなすという方法論が生まれた。フランシス・ベーコンは、自然はそれに従うことによって使うことができる、というようなことで表現している。そのようにして科学的法則性に突き当たった人間は、そこでまず人間の環境として与えられた科学的法則とはなにか、ということを考えなければならなかった。科学的法則をめざす最も古い考え方は、もちろんギリシャ哲学やいろいろな古代の哲学のなかに濃厚にあらわれている。それが産業革命の機会を迎えて、実験的手段で試行錯誤しながら客観的裏付けを積み上げ、その客観性を抽出してゆくという手法が積み上げられて今日の科学が成立したと考えることは、ごく自然であると思う。

(2)科学的法則

 では、このようにして人間の社会で進歩したと称せられる科学的法則の本質は何であろうか。実はその法則性そのものは、そこに人間がいようといまいと無関係に成立する法則であって、人間とはまったく隔絶したある存在である。だから科学が進歩したというのは、その存在に対して人間が何物かを付け加え、何物かを減らすことができるというものではなくて、そのような法則性を矛盾なく説明しうる認識の方法が進んだというわけである。

 たとえば、天体観測によってケプラー、ニュートンは、今日の万有引力に支配される、いわゆるニュートン力学を作り上げていったし、それが熱輻射等の問題に適用し難くなるに及んでウィーンやプランクなどの法則が次々と検討され、ついに量子力学を組み上げていった。しかしながら、そのもともとはベルリンのガス会社が燃料の消費とガスの明るさの問題についての、ほんとうに工学的なテーマを彼らに提案し、その解を求めたことから始まっている。さらに、その後アインシュタインの相対性論があらわれ、一応われわれが今日使う科学の武器はそろったわけである。

 だが、これとてわれわれの力によって作ったものではなく、圧倒的に人間の存在と無関係に存在するそのような法則性を、今日までの人間の観測と推理と論理性の限りをつくして、その解釈を克ち得たものである。

 そこで、きわめてここで明らかになることは、技術というのは人間が人間自身の環境を豊富にし改善するために作ってきたものであり、科学はしばしばその思惑に立ちはだかりながら、人間はその拒絶を回避するために、その法則性をしだいに解明したものであって、基本的な立場の差がまずそこにあらわれる。しかも、もう一度ここで言葉を選び、科学といわれるなかに物理化学的な自然法則と、もう一つ生命科学的な生命の在り方が今日までやや混同されて使われていることを、まず顧みてみなければならない。物理化学的な自然というのは、われわれがそれに関与することはまったくできないが、生命科学的な在り方については、生命の流れの一つの極である人間は大いに関与している問題である。この意味でも人間という今までの言葉を生物というふうに置き換えて考えてみれば、生物的自然、いわゆる生命科学のえがく生物的自然と、物理化学のえがく物理化学的自然は、まったく相異なる秩序にあるというふうに考えなくてはならない。

(3)生物的自然

 では生物的な自然とは何だろうか。永い地球の歴史、永い宇宙の歴史のなかに、いつ生命があらわれたか、これは有機物がしだいに外界との間に界面をもってエネルギー物質を代謝するようになり、生き物の最初の形が作られたという説もあるが、生体の最も基本的なものは、その生体が自分自身を常に自己同定し、常に拡大し、常に環境条件を超えて永遠に生き抜いてゆこうとする存在の方向性にあるといってよい。これは物理化学的自然が、さきほどのいくつかの法則性をないまぜて成立し、あるいはまだ発見されない統一場の原理というようなものがあるかも知れないが、熱力学の第二法則というもっとも素朴な現象から生まれるエントロピー逸散の法則は、圧倒的にいかなる状況にあっても物理化学自然を支配している法則であってそれは自己アイデンティファイを高めてゆくよりも、むしろ失ってゆく傾向にあるもの、すなわち一口にいって、エントロピー的なものであるといってよい。熱力学の法則に従う物理化学的な現象をエントロピーの法則で説明するとするならば、生物学者がよく言うように、生物の特色はネゲントロピー的な志向、これは法則でなくて、そのような志向にあるといってよい。

 しかしながら、このような生物は常にエントロピー的に拡散する物理化学的な法則性のもとに、その存在の脅威にさらされているわけで、何者がいつ生命を創り出したか、あるいは非常に緻密なタンパクの組成があって、それが自己同定性をしだいに深めていったにしろ、それは結果的にはある意志的な存在として一貫した自己同定性という方向をもっていることは、生物の大きな特色である。その自己同定性のもっとも単純なあり方というのは、自己が常に分裂して、いつまでたっても自分自身の分身すなわちクローンとしての存在があり続けることであって、これは裏返しから見れば永遠に自己が存在するという志向方向である。しかしながら、このような永遠志向は、その内部の機作から見ればたいへんオプティミスティックなものであって、一つだけの、いわば閉じた系の存在のあり方は、それを一度否定する別の一つの条件が発生するときは全滅してしまうという危険が常につきまとう。とするならば、生体を作り上げ、自己アイデンティファイを志向してくる生命の流れは、そこに環境条件の学習ということに気づかないはずはない。このようにして環境条件を蓄積する方法として生まれたのが、いままで永遠にクローン的に自己分裂していたものから、male と femaleが出来、すなわちオス、メスが出来て、それぞれの後天的環境獲得性質をそれぞれのDNAのなかに刻み込んで、これを染色体を通じて次の時代に伝えてゆこうという試みがおこなわれたと見ることができる。そのために実はDNAの在り方を見ると、A(アデニン)、C(シトシン)、T(チミン)、G(グアミン)というような四つのタンパクから出来ていて、それが二重螺線構造を作るきわめてメカニカルな形状をしている。そして、その長さは、たとえば人間の染色体の一つをとってみても、直径が1ミリに仮定すれば日本の本州を北から南まで貫くほど長い、という驚くべきほどの情報量の蓄積がそこになされている。しかも、そのすべての情報量、すなわち生物が最初の存在から現在の存在に至るまで蓄積したいろいろな学習を、そのなかに全部蓄積してあると同時に、それをそのとき、そのときの環境に合わせて、もっとも適当に発現させ、環境に対して不適当なものは制御してゆく、発現させないというメカニズムをもっていることも、また驚異に値する。われわれはこれを利用してDNAの組替えをやったり、あるいは細胞核融合というような技術を今や駆使し始めたが、生物が原核細胞から真核細胞に発展するまでに、おそらく細胞融合というようなものがあったということは一応考えられる。

Pocket

Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見