(25)個人と社会

 先日、テレビニュースの特集番組で、アジア諸国の森林が沢山消えていく状態と、その影響に関する問題を取り扱っていました。その切り出した木材のほとんどは日本に輸出され、木材および紙の原料として使われているそうです。日本に輸出される一年間の量は三重県の広さの森林を伐採していることになるそうです。バングラディッシュの水害が年々大きくなっているのも、ヒマラヤ地方の森林が減っているためだそうです。また、東南アジア諸国では、森林を伐採したために、いままでの豊かな水田に塩が上がってきて、今では塩田に変化しているところまででてきています。また一方、炭酸ガスやフロンガスによる地球の温室効果(温暖化)の問題点が叫ばれ、異常気象の原因とも考えられています。

 ところが、われわれ真宗門徒は、結構な世の中になったものだ、お陰様だ、とよく口にします。その裏には物質的にも豊になり、日常生活が便利になったことがあります。それも結構ですが、前記の現状を考えますとき、非常に個人的なような感がいたします。このように述べています私も、贅沢が身に染み込んでいまして、質素な生活に帰ることも出来ません。とくに大学ではコンピュータ、ワープロやコピー機をよく使用しますが、その紙の使用量たるや、いやになってしまうほどです。皆様方の身の回りでも同じことだと思います。ほとんど見ない新聞広告からダイレクトメールなど、メモ用紙にもならず直ちにゴミ箱行きです。

 地球規模の自然の生態系を考えねばなりません。しかし、これら輸出国にしましても、輸入国にしましても、それぞれの経済事情や社会事情がからんでいるのでしょう。したがって、一朝一夕には行かない問題だとはわかっているのですが、我々の孫や子どもたちに、汚れた地球を手渡さなければならないのかと思いますと残念です。

 物質文明の豊かさだけを追求していますと、これら森林の問題ばかりでなく、他の資源についても同じ問題を含んでいます。また、大都会の道路事情を考えてみても、必ず破綻を来すことは明らかです。

 これらの問題を考えていますときにふと善導大師の「二河譬」のみ言葉を思いだしましたので記してみます。

「又一切の往生人等に白さく、今更に行者の為に、一つの譬喩を説きて信心を守護し、もって外邪異見之難を防がん。(中略)
 即ち自ら念言すらく、『此の河は南北に邊畔を見ず、中間に一つの白道を見る、極めて是れ狭少なり。二つの岸相去ること近しと雖も、何に由りてか行く可き。今日定んで死せんこと疑わず。正しく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸漸に来たり○む。正しく南北に避け走らんと欲すれば、悪獣・毒蟲競ひ来たりて我に向かふ。正しく道を尋ねて去かんと欲すれば、復恐らくは此の水火の二河に堕せん』と。時に當りて惶怖すること復言ふ可からず。即ち自ら思念すらく、『我今回らば亦死せん、住まらば亦死せん、去かば亦死せん。一種として死を免れざれば、我寧ろ此の道を尋ねて、前に向こうて去かん。既にこの道有り、必ず度る應可し』と。此の念を作す時、東岸に忽ち人の勧むる聲を聞く、『仁者但決定して此の道を尋ねて行け、必ず死の難無けん、若し住まらば即ち死せん』と。又西岸の上に人有りて喚うて言く、『汝一心正念にして直ちに来たれ、我能く汝を護らん、衆て水火之難に堕することを畏れざれ』と。」

 人類は二十一世紀を前にして、この三定死を自覚しているでしょうか。宇宙船地球号は目的(西の人の招喚)も持たず、船長(東の人の発遣)もいないままの旅を続けるのでしょうか。

(26)環境汚染

 世界の森林が激減する状況について述べましたが、ときを同じくするように、朝日新聞の十月二十二日朝刊に、炭酸ガスの排出量を制限する記事が載っていました。世界六十七ヶ国の環境担当相らが参加して、十一月六、七の両日、オランダ・ハーグ郊外の保養地ノールドウイックで開く「大気汚染と気候変動に関する閣僚会議」は、地球温暖化の主因となっている先進国の二酸化炭素(CO2 )排出量を抑えるために開かれます。オランダ政府が事務レベルでの調整を行い、そのときに発表する宣言案の要旨が掲載されていましたので紹介しますと、

「先進工業国は、二つの異なる種類の特別な責任を有している。一つは、国内的な行動を率先してとることにより先例を作るべきだ。もう一つは、大気保全がとてつもない重荷になるような国々の行動を支援すべきだ。
 温室効果ガスの排出削減の進展は技術的あるいは経済的問題のみに依存しない。人々の姿勢の変革はこれらの問題と同様に重要だ。
◆エネルギー先進国が二〇〇〇年を越えない時期に二酸化炭素の排出を現在のレベルに凍結する必要性を認識することに同意し、二〇〇〇年までの二酸化炭素排出量二〇%削減の実現可能性を調査することに同意する。
◆森林 二〇〇〇年までに森林の減少と荒廃と、森林の健全な管理と造成について地球規模でバランスさせ、二〇〇〇年から最低二十年間は年間千二百万㌶という割合で森林の量を増加させることを追求することに同意する。
◆基金既存機関を強化することと並んで、国際的なファンドのような新たな資金供給のための便宜供与システムの必要性とその適用範囲について検討すべきであう。国際的な資金供給はまず、次のことに向けられことを勧告する。
①開発途上国におけるフロンの段階的な廃止 ②エネルギーの利用効率の向上と再生可能資源の利用の促進 ③熱帯林行動計画などの機関を通じた森林管理の改善に対する財政支援の増加 ④排出源および気候についての調査研究とモニタリング」

 この宣言案に対して、はや経済界や政府には反発があるようです。

「石油、石炭など化石燃料の消費に伴って排出される二酸化炭素の排出量を凍結することは、経済成長に大きな影響がある。とくに日本は二回にわたる石油ショックを切り抜ける中で、先進国の中でももっとも模範的な省エネルギー社会を実現してきただけに、経済界、通産省などには各国一律の削減案には強い抵抗がある。」

とも書かれています。経済の発展ばかりでなく、地球規模の生態系保全に向かって真剣に考えなければならない時期だからこそ、この宣言案が提案されるのです。しかし、一方この宣言案が可決されますと、世界的に反核運動の的になっている、原子力発電所の増加や代替エネルギーの開発が叫ばれる可能性が増します。

 紹介しましたテレビ報道でも,確かに日本企業は、アジアの木材輸出国に植林活動を開始しているようですが、それは地球の生態系を守ためではなく、製紙会社などが製紙原料の輸入を危ぶんだところからの発想ですので、現地住民の反発をかっています。これらのことはすべて我々一人一人の心の現れであり、経済的発展のみを要求する根性そのものです。

 宣言案にもありますように、我々大衆一人一人の姿勢の変革が重要であります。そのためには、仏教者は『浄土論』の二十九種荘厳をもう一度環境問題、地球の生態系という観点から学び直す必要があるように思えます。

 現代技術によって生産された各種の製品は、またたく間に廃棄処分にされることが多くなってまいりました。技術的に省エネルギー対策を行っても、それは微々たるものです。地球のエネルギーを守るためには、製品の廃棄をできるだけ少なくすることが重要です。そのためには、読者のみなさま方が子供さんや孫さん方に「もったいないで」、「贅沢したらあかんで」という言葉で地球エネルギーの節約を伝えてくださるようお願いします。

(27)宗教と科学・技術の出合いを求めて

 最後に、宗教と科学・技術の出合いを求めてと題して書かせて頂きます。

 斎藤先生は常日頃、エゴテクノロジー(便利さのみや儲けのみを追求する技術)からエコテクノロジー(生態系と調和のとれた技術)へと転換しなければならないとおっしゃっています。これらのお言葉は、技術が現実にエゴテクノロジーとなっていることに対する先生ご自身のいたみから出たものであります。また、このいたみから、先生は、『科学する心』や本書に載せさせていただいた『技術の源泉を問う』など数々の論文を著されたのだと思います。そして、あらゆる生命体が生き延びて行こうとするエネルギー、このエネルギーの根源を斎藤先生はビッグバン立ち会ったいのちのはたらき、意識、志向性といわれ、それは仏教で言うところの阿頼耶識かもしれないと仰っています。

「この阿頼耶識は、実は生物が生物の形をとる前にあった意識かもしれない。この意識は、実は根本的に生物の前から存在し、物理学的自然の成長に立ち会った意識かもしれない。」

というお言葉からもそのことがはっきりと伺えます。

 この阿頼耶識を曽我先生は『大無量寿経』の法蔵菩薩(阿弥陀仏の因位)精神であると言われております。

 また、親鸞聖人は『教行信証』の証の巻では

「無上涅槃は即ち是れ無為法身なり、無為法身は即ち是れ実相なり、実相は是れ法性なり、法性は即ち是れ真如なり、真如は即ち是れ一如なり。然れば、弥陀如来は、如従り来生して、報、応、化種々の身(形あるもの)を示現したもう」

と言われています。また、『自然法爾抄』では、

「自然というは自はおのづからといふ、行者のはからひにあらずしからしむといふことばなり。然といふは、しからしむといふことは、行者のはからひにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。法爾といふは、如来の御ちかいなるが故にしからしむるを法爾といふ。この法爾は御ちかいなりけるゆえに、すべての行者のはからひなきをもちて、このゆえに他力には義なきを義とすとしるべきなり。自然といふはもとよりしからしむるといふことばなり。弥陀佛の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀佛とたのませたまひてむかへんとはからはせ給ひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とはまをすぞとききてそふらふ。ちかいのよふは無上佛にならしめんとちかふたまへるなり。無上佛と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに自然とはまをすなり。かたちましますとしめすときは無上涅槃とはまをさず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀佛とぞききならいてさふらふ。弥陀佛は自然のやうをしらせんりうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことにはなほ義のあるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。」

と申されています。

 アルフレッド・ブルーム先生(元ハワイ大学教授 現アメリカ・仏教大学院学監)はこのご文章から親鸞聖人の教学を今日における「存在の生態学」と受け取っておられます。また、「真宗相伝義書」『三識の事』に次のようなお言葉があります。

「祖師の『信心の業識』といえるは、還滅門に約して、他力の妙門によせていえることなり。(中略)仏心真如の本源をたずぬれば、全体不変にして、言説の相を離れ、心縁・名字の相を離れて、畢竟平等にして、変易あることなきなり。しかるに、衆生利益をしめさんがために蠢々の心をいだす。六趣・四生・十二類生を摂して、衆生の妄心、万差に起動するなかに入満して、利生のために可発し起動するところを『業識』とさすなり。今は『真実信の業識』といえり。真実信の言は他力なり」

 なぜ、このような文を取り上げたかと申しますと、最先端の科学者である斎藤先生が現代の物理学的見地から、生命体にはたらいている非存在としての意識について述べておられます。一方、親鸞聖人はこのことを本願の理(道理)として説かれているということに頷いて頂きたかったからです。現在、科学者はもちろんのこと医学者や技術者などにとって、いのちあるもの、いのちそのものが問題となりつつあるからです。また、科学(理)と技術(事)の関係が密接ですが、仏教においても事・理・性・相の関係が大切で、深解と深信が具備していないといけないと述べられています。(『願海誌』昭和五十三年四月号)これらの意味からも、現代社会は真の宗教をもとめていますし、宗教は他文化との対話を通した現代語訳が要求されているのです。しかしながら、我々日本人のもっている宗教(仏教)に対するイメージは、依然、葬式仏教や先祖供養あるいは自分の欲望(無病息災、家内安全)をかなえてくれる対象としてしか受け取っていません。

 ここに親鸞聖人の悲嘆述懐和讃をひいておきます。

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
五濁増のしるしには、この世の道俗ことごとく、
 外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり。
かなしきかなや道俗の、良時吉日えらばしめ、
 天神地祇をあがめつつ、卜占祭祀つとめとす。
かなしきかなやこのごろの、和国の道俗みなともに、
 仏教の威儀をもととして、天地の鬼神を尊敬す。

現代のわれわれの姿を映し出して下さっていますし、我々の仏教は外道でないのかと叫ばれています。

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Last modified : 2014/10/31 11:22 by 第12組・澤田見