教行信証総説・第一講/廣瀬 杲

弾圧のもとに醸成された思想

1. はじめに

『教行信証』は随分大部な、しかも親鸞聖人の主著といいますか、そういう性格を持っているお聖教でありますから、それによってお話をするということになりますと、いろいろなことを考えざるを得ないわけであります。しかも私は、この研修会の主旨といいますか、それを十分にはお聞きしておらんのです。多分おっしゃってくださったのであろうと思いますけれども、私にはあんまり会の主旨というようなことを、事前にお聞きしないで出席するという癖があるものですから、今回も、どういう主旨で、あるいは、どういう計画でこの研修会が開催されているのか詳しくは知りません。

 もっと具体的に申しますと、『教行信証』という六巻からできております親鸞聖人の主著を、どういうふうな展開の中で確かめをしていこうとしておられるのかというようなことも確かめずに来たのです。おそらく、かなり計画を練って始められた集会であろうと思いますけれども、そのことをほとんどきちっとお尋ねはしておりません。それは、お尋ねをしなかったのでありまして、おっしゃっておられないとは申しておりません。おそらくおっしゃっておられたのだろうと思います。ただ私の方が積極的に聞く気持ちがないものですから、お尋ねをしていないという言い方をしているわけです。しかし、ただ二つのこと、そのことだけは始めに念を押さしていただいたわけです。

2. 二つの約束

 その第一は、これは私の方からというよりも、主催をなさる方からのご要望としてお聞きしているわけですけれども、できることならば、隔月出て来るようにというのが一つのご要望でありました。それは確かにお聞きしました。それからもう一点は、どんなふうな話の仕方をしてもいいと、はっきりお聞きしております。どんなふうに話をしてもいいということは、逆な表現をとりますと、お聞きくださる方がどのような関心を持っておろうとも、それに合わす必要がないということだろうと、私は自分勝手に受け止めておるわけです。ともかく、どんなふうに、あるいは、どんな具合いに話を進めて行ってもかまわない、こういうふうなことを最初に聞いているわけです。

 そういうことでは今回が最初でありますから、偶数月にここに来て話をするようにということであります。このことは、そのようにお決めくださって結構だと思います。結構だとは思いますけれども、来れるか来れんかは、私が決めようと思いましても、ご縁が決めてくることですから、いくら来々月来ますと言いましても、来れるか来れんかは私が勝手に決めるわけにはまいりません。体が動かなければ来られません。これは気楽な話であって、隔月に出て来いといわれれば、「ハイッ」と言えばそれですむことなんです。ですから隔月とお考えくださって結構であります。

 しかし、「本当に隔月に出て来れるか」と言って私に念を押されましても、これは困るのでして、私は出て来るつもりで今はおりますけれども、出て来れなくなるかもわかりません。その点は、いくら隔月といわれましても、さして気にはしておらんのです。ちょうどその時に格別なことがなくて、そして出て来れるということになれば、お約束ですから出て参りますし、出て来たくて、出て来たくてしかたがないという思いでおりましても、出て来れないという状況であれば、その出て来れないという状況に従わざるを得ません。その点では今の第一の約束事、あるいは、ご要望のこと、そのことは確かに承っておりますし、そういうふうにお約束をしておりますから、皆様方の方でもそういうふうにお考えいただいて結構だと思います。これはまた、私が出て来ましても皆さん方が出て来れないということもありますから、五十歩百歩であって、決めたところで、決まってくるか決まってこないか全然わからん話だろうと思っています。第二の方は、これは非常に有難いことだと思っております。私の思うようにどんな具合いでも、話をすすめていってよいと、こういうお話であったわけです。確かにハッキリ申しまして、私は大谷大学で真宗学、文字通り親鸞聖人の教えを勉強するということ以外何もやったことのない人間であります。ですから、『教行信証』について全然わからないという言い方は許されないだろうと思います。そのことぐらいはわかっておるわけです。けれども、じゃあわかった話ができるかと、こう言われますと私にはわかった話ができないということが、だんだんこのごろハッキリして来たんです。むしろ今までわかったつもりで話をしておったことが実際にはわかっておらなかった。あるいは、わかるべき視点と言いますか、見るべき眼が私の中でハッキリ開いていなかったんじゃないかということが、だんだんいろいろなご縁を通して、知らされて来ておるわけであります。

 そういう意味では先程もある方とこんな話をしたんです。大学の約束事といたしましては、あと二年で定年になるということを申しましたところ、その方から「おたくらの仕事には定年はない、一生涯をかけてやっていくのでしょう」と教えていただいたわけです。

3. 教学の視点を問う

 私は、少なくとも大谷大学という学校に限定して申しますと、真宗学しかやってこなかった人間でありますから、他のことをいろいろと話をしろと言われれば、これはできませんとハッキリ言い切らなくてはならないんです。けれども、真宗学、即ち、親鸞聖人のお聖教を通して何事か語れと、こう言われた時には、お話できませんという返事だけはできない。これはもう否でも応でもそういう返事をすることは許されないのです。ともかく定年間近かになるまで月給もらって、それでご飯をいただいて生きて来ておるわけですから、真宗学としての話はできませんという返事をしたら、これはもうとんでもないことになってしまうということぐらいは自分でもわかっております。わかっておりますけれども、じゃあ今、私がこれまで少しばかり、『教行信証』でありますならば『教行信証』について了解しておったつもりのことを、ここで反復して話をすればそれでことが済むのかということになると、ちょっと近々のところでは、済ますことができない状態になっているわけです。『教行信証』を初めとしまして、親鸞聖人がお書きになったすべての著述、さらには手紙類、その他、諸々の親鸞聖人に関わる事柄の全部を一度、根っこのところで問い直してみないといけないと思うのです。私自身が今までいろいろなことを言うてきた全体が、本当に確かめられていく方向を持っておったんだろうか、どうだろうかということが、最近とみに気になってきているわけなのであります。そういう意味では、今日は最初でありますからようすもわかりませんので、お互いの気持ちの間の間隔をつめておこうと思っておりますので、荒っぽいお話をして終わっていくことになるのだろうと思っております。

4. わかりたいこと

 そういうことで今回は、わかっていることを話すというよりも、わかりたいことをお話させていただきたいということであります。ですから、こういうことがわかっております、こういうことが昔から言われておりましたということは、私はまず申し上げることはないだろうと思うのです。そういうお話を私が今さらここでするのであるならば、そういう書物をお読みいただいた方が早いと思います。たしかに先輩の先生方が教えてくださったこと、その事柄について無関心にお話することはできません。無関心にお話することはできませんけれども、気持ちの置き場所としては、私がわかったつもりで来たことじゃなくて、今どうしてもわかりたいことをお話します。特に今回は『教行信証』を拝読するということが中心に置かれておりますから、特に、『顕浄土真実教行証文類』というふうにハッキリ内容を、題名それ自体が表現している、その『教行信証』を拝読していくなかで私がわかりたいことを話します。関心といえば関心ですけれども、その関心のなかで、どこまで『教行信証』を依り処にしながら話合いができるのかというのが、今回出てまいりました一番素朴な私の気持ちであります。

5. 会の性格

 ところで、この会は、公開といいますが半公開といいますか、ややこしい組織だそうでありまして、研修院の院生は限定がされていて、しかもそれを、公開という形で多くの方がとり巻いていると、こういうちょっと変った形態のお集まりだそうであります。そういうことでは『教行信証』ということになりますと気になることが、いくつかあるのです。

 何分にも大部な、しかも親鸞聖人の思想の営みの中では、きりつめて事柄を徹底しておいでになる、そういう六巻からなっているお聖教に依りながら、どういうふうにお話をしていけばいいかということは、やっぱり気にならんというわけにはいかんと思います。どういうふうに話をしてもいいと言われた限りは、気にしなくてもいいのでしょう。気にならないというわけじゃないけれども、気にしなくてもいいというお許しを得ているわけです。

 例えば何年何月までに「顕浄土方便化身土文類」の一番最後まで終われ、という限定は一度も聞いておりませんから、何年何月に終わるやら、そういう限定は私の念頭に置く必要がないわけです。あるいは、最後まで話せというふうにも言うておられませんから、途中で終わってもおしかりをうける理由は何もないと思っております。あるいは本文にしたがいながら、どんどん話を進めていけというご要望もありませんでしたので、いつから本文に入っていくかわからないということになっていくかもわかりません。ですからそういう意味では、どういうふうにお話をさせていただいても構わないということになっておるというわけで、その点での気になる部分は、ある意味では解消ができるのです。

 しかし、こういう解消の仕方というのは非常にやっかいでして、こちらの方が余計限定されるのです。いつまででも結構ですし、いつ終わっていただいても結構ですし、どんなふうに話をしてもらっても結構ですし、お好きなようにと言われますと、何をどんなふうに話をするのが好きなのかがわからなくなるのです。そして実際は、とんでもない、一杯食わされた、食わされたというわけではないんですが、何かひっかけられたという感じもしないわけでもないんですが、しかし、お引受けをしましたのでとにかく始めます。

Pocket

Last modified : 2014/10/30 22:12 by 第12組・澤田見