21. 法然と出遇い

 どうして、この三つの物語を、わざわざ娘、覚信尼に伝えなくてはならなかったのか。もっといろいろな親鸞像が、そこで伝えられていいだろうと考えられるわけです。ところがそういうことは一切言われない。まず最初は法然上人との出遇いということです。そこでの親鸞聖人の述懐の言葉は、『歎異抄』の第二条にも、少々別な表現で示されてあります。つまり、そのご述懐を『歎異抄』は、『歎異抄』が主題とする信心という事柄の内容を明瞭にすべく位置づけているわけです。あるいは覚如上人の『執持抄』の中にも、やはりこの言葉が違う感覚で引かれております。

 ところが、そういうことよりも、恵信尼のこの書簡を通して私に読みとれてくることは、まず恵信尼公にとって、親鸞という自分の生涯の夫は、どのような存在であったのかということです。それは、別にきらびやかに飾ってものを言うべきことではないにしても、いろんなことが思い起こされたであろうし、悲喜こもごもと言ってもいいような感慨がこみ上げて来たことだろうと思われますが、そういういろいろな出来事と、それに関わる感慨とを一貫して、微動だにしない親鸞という人はいったいどういう人だったのか。実は、そのことがまず最初に明瞭にされる、と私は思います。

 そこに記されていることは、百ヶ日を限って六角堂に寵り、その九十五日目の暁に聖徳太子の文を結んで示現にあずかることによって、「後世のたすからんずる縁にあいまいらせん」として、法然上人を訪ねた。そして、法然上人からお聞きしたことは、「善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋」ということであった。そのことを聞き定め切ろうということで、その日からまた百日、六角堂に寵もったと同じ日数を、「降るにも照るにも、いかなる大事にも」通いつめて、確かめ続けたということです。いうならば三百六十五日の内の百九十五日かけたわけです。この百九十五日かけるということの内に、恵信尼公は、随分大事ななにものかを見据えておると思うのです。こういう具体的な伝達の仕方は、恵信尼公の手紙以外には見えない事柄です。

 確かに恵信尼公は、親鸞聖人からそのことを話として聞いたに違いない。その当時はまだ結婚していないんですから、恵信尼公が直接に見ていたわけじゃありません。しかし聞いた言葉を通して、こういう印象を八十二歳に達しても具体的に持ち続けるということはいったいどういうことなのか。私はそこには、いろいろと、申し上げたいこともございますけれど、一つの要素として何があるのかと言うと、少なくとも、親鸞聖人が、二十九歳で山を降りて、これだけの厳しさを通して決着をつけなくてはならないということ、つまり、百九十五日もの月日をかけてまでしても決着をつけなくてはならなかったという事実の内容へのうなずきであると思います。

 その具体的内容は、弾圧をする側の仏教から弾圧をされ続ける仏教へ転身したということであります。これは、はっきりそうでしょう。親鸞聖人が比叡山を降りて、法然上人の浄土宗のもとへ帰したということはどういうことか。実はそこに具体的には、その後も一貫してまいりますし、『教行信証』の一番最後の文章においても、そのことは、キチッと書かれておりますからおわかりでありましょうけども、少なくとも、弾圧をする側に位置づけられてあった仏教から、弾圧をされる仏教へ移ったということです。だからといって、百九十五日は、そのことへの逡巡だとは申しません。しかし、それを決着づけるということは、それほど簡単なことではなかろうかと思います。

 だから私は先ほど来、弾圧という言葉についての我われの認識にまつわる感覚のようなものが、バラバラでありますと、このことを自分の感覚のところへ引きずりこむことによって、親鸞聖人の思想の根底を一貫する事柄としての弾圧ということと、微妙にくい違っていくんじゃないかということに、ある恐れを感じながらお話をしているのであります。

22. 被弾圧の仏教

 弾圧をする側の仏教から弾圧をされる側の仏教へ移ったという事実は、決して単に移行していったということじゃなくて、弾圧をする側の仏教と訣別をしたわけです。完全に訣別をしたわけです。訣別をしたということはいったいどういうことかというたら、その時から弾圧され続けることを覚悟したということであるし、弾圧され続けることを恐れる必要のない自己をはっきり見出したということであるわけです。

 本当に、その時以来、文字通り親鸞聖人は、曽我先生流に申しますと、生涯弾圧の中で、法然上人によって、「花も実もある浄土宗」として、独立した仏教、二千年の歴史を経てやっと開花結実した浄土宗を、「大乗のなかの至極」として開顕していく教学の営みを、一貫して生命終わるまで続けていかれるわけです。

 そういうことで思いますことは、具体的な事柄になりますけれど、親鸞聖人は確かに建仁元年という年に二十九歳で法然上人にお会いになるわけです。しかし、建仁元年に法然上人とお会いになる、その一年前の承治二年という年は仏教関係の史料じゃなくて、『吾妻鏡』に念仏の弾圧の記録があるわけです。いうならば、当時法然上人の浄土宗が弾圧の嵐の中にあったことは、誰でも知っていることなんです。そこへ親鸞聖人は降りてくるわけです。

 ということは、単純なものの言い方をすれば、弾圧をする仏教が人間を救うということはありえないということです。弾圧をしていくその仏教が、全ての人々を平等に救うということはありえないという単純で素朴な事実です。そのことへのうなずきが、全ての人々を平等に救うということができないならば、大乗の仏教と名告ることは許されない。とするならば、たとえ、その当時の常識として、大乗の仏教がどのように語られていようとも、具体的に目の前に人間社会の現実として、仏教の大乗性を証している法然上人の浄土宗にこそ大乗の仏教がある。これは決してめんどうに考えることでないと思うんです。めんどうに考えることでないからして、その具体的な厳しさというのは、非常に厳しいわけでしょう。見ればわかることだから、それを見てこれは仏教でないと親鸞自身が首を横に振ったとたんに、親鸞自身にとっては、仏教とは何かということがわからなくなるわけです。

 目の前に、男女の差別も越え、貴賎の差別も越えて、具体的に万人が平等に集うていく、という事実がある。しかも、そこで語られている法然上人の言葉は、やはり仏教が語られているわけですから、それに対してこれは仏教でないと首を横に振ったとたんに、実は親鸞聖人にとっては、仏教とは何であるかということがわからないということになる。出口のない迷路の中へ入っていくということになるわけです。

 そうすると、そこでの決断ということは、考えて、思索して、これが正しいとか、これが間違いなんだという、そういう思索のうえの点検じゃなくて、具体的な事実において、事実を見ながら、それを仏道の事実としてうなずくか、それとも事実を見ながら、この事実は仏教としては間違いだというふうな考えをもって否定するか、その決着点、その決着のつけ方の意味が、特に奥様の恵信尼の手紙によって、非常に生き生きと、我われに伝わってくるということです。ですから、そういう弾圧をする側の仏教から、弾圧をされ続ける仏教へ、親鸞が帰した。したがって弾圧をする仏教と、完全に訣別をするというのが、法然上人との出遇いだということのもっている意味は、単なる思想の問題ではなくて、この事実に仏教を認めるか、それともこの事実は仏教でないと自分の意識の中で、ねじまげてまでして、否定するか、どちらに立つんだ、という決着のつけかただといわざるをえないと思うのです。

23. 仏教徒の見落し

 そうすると、やはり恵信尼公の書簡というものは、そういうふうな問題を私達に教えているのだということを思わざるを得ません。と同時に、私はずっとこの数年そんなことばっかり考えておるんですが、なまいきな言い方になりますけれども、私をも含めてこれまでの真宗の教学についての学びの中で、やはり、これは見落したと言わざるをえないのは、親鸞聖人という方は、自分のことをほとんどおっしゃらないということがあります。でも一言もいわれなくても、書きものが残っておる限り、見えないことはないはずです。その意味では見えなかっただけだろうと思うのです。

 やはり、あれだけの書きものには、一貫している思想を生み出してくるもとが本来あったに違いない。種も仕掛もないといいますが、そういうことは決してないのであって、必ず種があったに違いない。それでは、どこにその種があったのかというたら、やっぱり、親鸞聖人が出家をしてからの比叡山を中心とする二十年という時期にあったのでしょう。それは、二十九歳の時までの二十年、よく在叡時代という言い方をされますが、その時に親鸞聖人が何を問い続けておったのかということです。親鸞聖人における比叡山での課題が我われには、あまりにも不明瞭でありすぎたのではないかということです。だからその課題を個人化してきたのではないか。先ほども申しましたが、弓偏の弧でなく子偏の孤として、個人化してきたがために、それ以降ずうっと真宗の教えは、ゆがめられて受けとられてきたのではないかと思うのです。比叡山での親鸞聖人の問題意識を個人化したことによって、抽象化がおこなわれ、ずうっとその抽象化の中で、何やらもう一つ見えているようであるにも関わらず、その見えておるものを抽象化の方へ逆にもちこんでいくということを、ずうっとし続けてきたのでないかということが、やはり恵信尼書簡を通しても知らされるわけです。

 その知らされるということは、もう少し言葉を加えて申しますならば、やはり、比叡山で親鸞が学んだ仏教が何であったのか。やっぱり大乗仏教のメッカでありますから、「生死即涅槃、煩悩即菩提」そして、「一切衆生悉有仏性」でありますし、日本的に申しますと、「草木国土悉皆成仏」という、そういう教えであったに違いありません。しかし、そういう言葉が具体性を持たなくなる時、もっとも冷酷な働きをするということを親鸞聖人は、いやというほど知っておられたのだと思います。
 言葉が完璧であって、その言葉が完壁であるが故に、その言葉が具体性をもたない。その言葉が実働性を持たなくなった時、その言葉を持った人間ほど、冷酷なことを平気でやる人間はない。このことを私は、親鸞聖人という方は比叡山で感じとっておられたのだと思います。

 確かに人間は言葉をもっている生き物だといわれておりますけれども、それだけに、言葉の大切さというのは、言葉に血が通っているか、通っていないかということで決まるのでしょう。言葉が人間を動かすわけですから、もし言葉が人間を動かさなくなった時、その言葉が完壁であればあるほど、その言葉は最も冷めたい言葉になり、冷めたい作用をするわけです。もともとその言葉が最も暖かい事実を指し示しているはずの言葉であればあるだけ、それが実働の力を見失った時、最も冷酷に作用するということです。

 私は、そういう意味において最も言葉の完璧さが冷酷に作用しているという事実を、比叡山を中心とする、あの二十年の間、親鸞はずうっと見つめ続けていたのだと思います。と同時に、その冷酷さを単に見つめていただけではなくて、その冷酷さが具体的に庶民大衆のところでどんな作用をしているのか、ということをも同時に見据えておられたに違いない。それは単に見ておったのじゃなくして、その庶民大衆が天災、地変、戦災といった諸々の厳しい状況のもとで生きなくてはならないという現実の上にどういう作用をしているかを知るということです。

24. 何のための仏教か

 上映された『白い道』の中には、そこの部分は映像化されていなかったと思いますが、未定稿のシナリオにはこういう場面が描かれてありました。三条河原を善信が歩いていますと、飢えに苦しむ乞食たちが死んだ赤児の腕を引きちぎって、その肉を食べている場面を見てしまう。善信が見て見ぬふりをして通り過ぎようとすると、その中のひとりが、赤児の腕を突き出して、「お前もこれを食わんか」と言って呼び止めます。善信はそこで、慄然として立ちすくむという場面があったのです。そこはついにカットされてしまったようです。

 もちろんそれは、法然上人に帰依してからの話ということになっています。ですから映画では回想場面として描かれているわけです。しかし、その時に乞食がはき出すように言うた一言は、「何のための念仏か」、という言葉です。それが越後へ行ってからの親鸞の回想として出てくる。「何のための念仏か」、それは、法然上人のもとに、身をおいてからのことにして書かれていますけども、比叡山で親鸞が痛感したことは、まさに「何のための仏教か」、ということだったのでしょう。悉皆成仏を語る仏教、それは具体的にはいったい何のための仏教か。我われがこのように苦しめられているのに、その苦しみに輪をかけるような作用をしておりながら、草木国土悉皆成仏というようなことを平然と論じている仏教とはいったい何なのか。はっきりとした言葉にはならなかったかもしれませんけれども、そういう苦渋の中に呻吟する庶民の呪詛というていいような告発の声を親鸞聖人は比叡山で聞き続けながら、人間にとっての大乗の仏教とは何なのかということのみを、自らに問い続けておった。その答えが、実は法然上人の浄土宗として、はっきりうなずけたのであろうと思います。

 そういう意味では、まさに人間にとっての仏教とは何かという、言葉にしてしまえば単純な問いをもって、悩み続けた親鸞聖人の在叡二十年というものは、単なる個人の資質に関わる悩みというようなことだけに矮小化するかぎり、それ以降の親鸞聖人の生き方なり、思想というものは、どうしたって読み取れないのじゃないでしょうか。本当に読み取れるというならば、読み取れるような転換点を見つけなければならない。しかもその転換点は一つしかないのでしよう。

 それは、やがて『教行信証』の後序において、親鸞聖人自身が明記しているように、「建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」という、このことにうなずくということ以外に転換点はないわけです。少なくとも比叡山を中心とする仏教、先程の私の言葉で言えば、論理的に完壁であるが故に、冷酷にしか作用しない仏教を雑行といって、それを捨てるというふうに言い切って、そして、法然上人によって明らかにされた仏教を、本願という言葉で押さえて、そこに帰する。こう言うたこの一点以外に親鸞聖人九十年の内実に触れ得る点というものはないのだと思います。

 この一点を具体的に言えば、弾圧をする側の仏教から、弾圧をされ続ける側の仏教へ身を置き換えることによって、そこに、人間にとっての大乗の仏教が証されていく方向というものを、一つ一つ確かめていくこととなった。実はそういうことが、私には特に恵信尼の手紙を通して、生き生きと思われるのであります。

25. 他力本願念仏宗

 もう一つだけ申させていただきますと、あの『歎異抄』の一番おしまいにある文にも強く心を惹かれるのです。この文は『歎異抄』の本文とどういう関係をもつのかということで、いろんな議論がされていますが、その内容はいわゆるあの承元の弾圧の記録文書的な文章として書かれているわけです。しかも、その文体は独特の書き方で書き出されております。

 後鳥羽院御宇、法然聖人他力本願念仏宗を興行す。于時、興福寺僧侶敵奏之上、御弟子中狼籍子細あるよし、無実風聞によりて罪科に処せらるる人数事。
 一 法然聖人並御弟子七人流罪、また御弟子四人死罪におこなわるるなり。(聖典p641)

云々ということで、そこに名前が出てまいります。

 この書き出しですが、「後鳥羽院御宇法然聖人、他力本願念仏宗を興行す」といいます。しかし、法然上人の書き物や言行録の中に、他力本願念仏宗という宗名は見出せません。それなのになぜこういう言葉がここに示されるのか、「後鳥羽院御宇、法然聖人浄土宗を興行す」というのならば、これは正確でしょう。そういう正確さを期して書いたのが、覚如上人の『御伝鈔』だと思います。『御伝鈔』でははっきり、そういうふうに、

 浄土宗興行によりて、聖道門廃退す。是空師の所為なりとて、忽に、罪科せらるべきよし、南北の碩才憤り申しけり。(聖典p732)

 こういう言葉でそのことを書いています。いわゆる浄土宗が興行することによって、聖道門が廃退した。これは源空上人のなせるわざだ。だからたちまち、これは罪科に処すべきであるということで、南都北嶺の学者達がいきどおって奏上をしたと、こういう書き方になっています。記録ということであれば、この方が、事実状況の記録としては正確であるというべきでしょう。事実状況の記録としては、こういう具合に正確に書けることを、どうして『歎異抄』の跋文では、わざわざ、その弾圧の事実を、きわめて冷静な文体をもって書いているにもかかわらず、「後鳥羽院御字、法然聖人他力本願念仏宗を興行す」となぜ書いたのか。「浄土宗興行す」ではなにがはっきりしなかったのか。

 私はこの文章を見た時以来、課題的に考えているのですが、やはり、他力本願念仏宗という言い方は、法然上人によって名告られた宗名ということでいうならば落ち着かない。やはり浄土宗というか、あるいは、書物の名前をもって宗名に当てるというのならば、選択本願念仏宗でしょう。ところが、選択本願念仏宗といわないで、他力本願念仏宗というた。他力本願念仏宗というたということは、他力という言葉に、決定的な意味をもたしていると考えざるを得ません。そう考えていきますと、これは自力の仏教に、きちっと対峙させて、他力という言葉を使っているといわざるをえない。つまり、浄土宗とは何かと言うたら、他力本願念仏宗である。ということは、自力の執心に依拠して、成立していく雑行の仏教と完全に訣別しなくては、成立しない仏教であるということを明瞭にするという意味があるのではないかと思う。そうすることによって興福寺の僧侶による奏上文の「敵奏」の性格も明らかになるのでしょう。つまり浄土宗の独立ということは単なる一宗一派を勝手に興したということではなく、それは、仏教を他力本願念仏宗として興行したということである。そういう意義を明らかにすることによって、それを敵奏する側の仏教の理不尽性を質的に明確にするという記録になっていくわけでしょう。

 そうした視点に立って、この『歎異抄』の跋文を読みましても、やはり、そこには、親鸞聖人が法然上人の浄土宗に帰したという、その時から、生命の終わる時まで、そのような質の弾圧の中で、法然上人によって明らかにされた選択本願念仏の教えというものの、大乗の仏教としての意味、意義を徹底して思想化していくということの必然性ということがうなずけると思います。

 そういう意味において私は、親鸞聖人の思想の営みの根っこを一貫していることは、弾圧という事実であると言うのであります。この一点だけは、私達の、かってな感情で肯定したり否定したりすることはやめて、事実そうなんだということを、一度きちっと押さえたうえで、そういう基底の上に明らかにされている親鸞聖人の教学は、いったい、人間にとってどういうことを明確にするのか、と尋ねるべきではないでしょうか。例えば、信心為本の教えだと言うて来ましたが、その信心ということは、人間を具体的にどうすることなのかというふうに、確認していかなくては、事が明瞭にならないのではないでしょうか。

 ともかく、これから『教行信証』をご一緒に勉強させていただくわけですから、あちこちうろうろすることだろうとは自分でも思っておりますけれども、まずその一点だけは、一度、共通の了解点として、押さえておきたいのです。その共通了解の幅は抜きにいたしましても、了解の場所ということとして、はっきりさせておきたいと思っているわけです。今夜は特に恵信尼の手紙と『歎異抄』の跋文だけで、ごく入り口のところだけを申しあげましたけれども、それはやがて、越後の流罪、そして関東での二十年の田舎の人々との生活、そして京都へ帰ってきてからの三十年の著述を中心とする思想的な営みというものを一貫して、どういうふうな節目をそこに見ていくか、ということは、やはり大事なことだと思っております。しかしまず、それに先だって、入り口のところで共通の確かめ事をお話合いしておきたいということで、今日はお話をしたことであります。

『生命の足音−教化センター紀要1−』(大阪教区教化センター発行)より

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Last modified : 2014/10/30 22:12 by 第12組・澤田見