11. 宗教の要

 非常に大雑把なものの言い方になりますけれども、例えば、信心とか宗教とかいう言葉、その事柄についての確かめは、これから『教行信証』を拝読する中で、やっていくつもりではおりますが、ともかく、宗教といえば、たとえそれがどんなに、低次の宗教という表現で呼ばれていることでありましょうとも、高位に位置づけされている宗教ということでありましょうとも、宗教と他の諸々の人間に関わる事柄との違いは何か。一言で言えというならば、その内容のいかんを問わないで、やっぱり「信」という一言に尽きると思います。例えば信心という言葉、あるいは信仰という言葉、とにかく「信」という言葉で表現されるようなことが、宗教として人間に関わる、関わりの性格を決定づけていく言葉である。これは、まず基本的に間違いはないと思います。

 たしかに宗教といっても一概にいえない。むしろ実践ということが中心である宗教もありますけれども、やっぱり宗教において実践といわれる時には、倫理という事柄の中において実践といわれる事柄とは違うにちがいないと思います。その違いはいったい何なのか。やっていることは人間のやっていることですから、外から見れば同じことをやっているのかもわかりません、しかし、その違いをどこで押さえるのか。押さえるとすれば「信」ということで宗教を押さえていかざるを得ないと思います。

 倫理というものも、人間の関係によることわりでありますから、そこにも「信」ということが重要な要素をなしてくるということはわかります。しかし、その「信」と、宗教の宗教たるゆえんとして押さえるべき「信」ということとは、随分質としての違いがあると思います。その質としての違いのあることがどこまで徹底できるかということによって、宗教が宗教としてどこまで自立するかということを決めていく、そういうふうになるのだろうと思います。

 その「信」ということ、あるいは宗教ということを考えます時に、大雑把な言い方ですけれども、やはり「信」は、「一人ひとりのしのぎ」ということがあります。一人ひとりということがありますように、やっぱり一人の問題である、こういう発言が出て来ます、そしてこのことは、間違いがないと思います。となりの人と相談しながら、ご信心を得るというのでは話にならんと思います。やっぱり、一人ひとりの問題であるに違いません。

 その時、「一人」と、こういうた時に、その一人が人間の関係から切り離された一人であるといたしますと、そうした一人というものは具体的に存在しない一人であると言わざるをえない、抽象化された一つの言葉でしかないのでしょう。

12. 「弧」と「孤」

 かつて、金子大栄先生が、孤独の「孤」という字と、弓偏の「弧」という字とを通しながら、今のような問題をお話になっておられたことがあったのを思い出します。もし、孤独・孤立の孤が一人ということの意味だとするならば、これはやはり抽象的な、人間の観念が想定した人間にすぎないのではないか。そうじゃなくて、もし同じ発音でものを言うならば、弓偏の弧を使うほうが、具体性を持つのではないかという意味のことをお話なさったのです。

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 つまり、円の一部の曲線を弧というのであって、弧の部分だけをとり出せば、もはやそれは「弧」とはいわない。少々曲がった線があるというだけである。どんなに短い小さな部分でも円周上にあるかぎり「弧」というんだと話されたのです。
 金子先生は、数学とか幾何とかがお好きといいますか、お得意な先生でありましたので、こんな例でお話なさったのですけれども、今から思い出してみますと大切なことがいわれていると思います。言葉としてはそれほどむずかしいことをおっしゃっているわけじゃございませんけれども、事実としては、随分私達にとってわからない内容です。生命はわかっているのですけれども、意識がわからないことを言い当てておってくださっているのじゃないかと思います。

 信心というのは一人ひとりの問題だと、こういうた時に、その「一人」というた時の一人を「弧」でいうのか、「孤」でいうのかということです。弓偏の「弧」は字の約束として「一人」という意味にはならないといえばそれまでですけれども、「コ」という発音で、もし事を詰めていきますと、弓偏の「弧」としての内容をもって「一人」というのか、あるいは、円周をとりはらってしまった、宙に浮いているような一つのまがった線をもって一人というのか。これは全然違うと思います。

 少なくとも一つの円をかたち作るうえで、欠くべからざる要素としての存在としてでなくては人間という存在は押さえ切れない。これは明瞭なことであるわけなのです。ところがやはり、信心あるいは宗教という事柄が、「一人」の問題というた時に、その辺があいまいになってしまうのではないでしょうか。

13. 個の確かめ

 話が飛躍するといいますか、いらんことに入りすぎていくかもしれませんけれども、最近いわゆる真宗大谷派の信仰運動についてもこんなことを思うのです。信仰の活性化と申しますか、そういう一つの運動ということで、同朋会運動が発足をして二十五年たち、大きな点検の時に来ているといわれています。同朋会運動発足のころ、「家の宗教から個の宗教へ」ということがいわれました。そのことを今日から一度点検しなおしてみます時に、その家の宗教から個の宗教へというた時に、どういう点が押さえられていたのか。その時に、いま申しているようなことが点検内容となっていたかどうかということが、やはり今日になってみますと、問題にならざるを得ないと思います。

 その時に家というのはどんなふうに押さえていたのか。したがって「家の宗教から個の宗教へ」というた時に、個というのはどういうふうに押さえるのかということが、どこまでハッキリしていたのか。そこで問題となって出てまいりますことは、今日、具体的に申しますと、家が崩壊していって個が孤立化していくという状況の中で、その最初のころに確かめたのか確かめないのかはともかく、そういうふうに表現された言葉、それが今、こういう人間の生活状況の中で、どういうふうにきちっと押さえ切ることができるのかというと、やっぱりそこに問題が残るわけでしょう。あえて核家族というようなことを口にしなくても、これはやはり問題とすべき事柄としてわかってくることでしょう。

 そうしますと、たまたま金子大栄先生がこういう譬喩のようなことでおっしゃった、そのことの持っている意味というのは、やはり非常に大事な指摘だといわねばならない。個人というた時、その個人ということの押さえ方が、もし人間という全体との関わり、というよりも人間として生きているということにおいて個人ということが語られていかない限り、その個人という言葉、一人という言葉は、抽象概念であって具体性を持たない。こう言わざるを得なくなるわけです。

14. 社会性の強調への危惧

 私はもう一つ先程から口ごもっておりましたことを別な言葉で申します。

 さきほど申しましたような弾圧下に醸成されてきた教学の営みだというようなことを言います時、かなりのところで、共鳴をしていただくことが多いわけであります。その時に、正直申しまして、私が言いたいなあと思うことと、感覚的に違ってくるような気がしてならないのです。それは私の方が間違っているのかどうか、それはよほどきっちり吟味しないといけないことだと思ってますが、宗教、あるいは信心ということの社会性の強調といいますか、社会性の強調をそこでしていくということが、私に少しわかりかけてきた親鸞聖人の教学の根っこを一貫することについて語ろうとする時、共鳴を持ってうなずいてくださることについて動く感覚についての確かめはしなくてもいいのかということがあるような気がします。

 確かにそこでは社会性を語っているということであるかもわかりませんけれども、しかし私の気持ちとしては、別に社会性の強調をしているつもりはないんです。事実そうだということを、事実そうだというふうにいおうとしているだけであります。ですから、もし個ということが抽象であるならば、社会性の強調ということも、また違う側面からの一つの抽象にはなりはしないだろうか。そんなことを危惧として自分の中でも持ちつつ、こうしたことを話しているわけです。

15. 人間問題の具体性

 そういうことも思いながら、あえて、これまで真宗学をやってきた人間として、自分目身の中で見落してきたと感じていることは何か。単に私自身というだけではなく、言葉がすぎるかもわかりませんけれども、これまでの教学の営み全体が、やはり見落してきたといわざるを得ない、そのことは何か。それを弾圧という言葉で押さえているわけです。ですから親鸞聖人の思想の営み、宗教的思想の営みというものが、終始弾圧の中で醸成されてきたのだという、この言い方で私がいいたいのは、単なる個の問題でもなければ単なる社会性の強調という問題でもないのです。一言で言葉にしてしまいますならば、文字通り、人間の問題の具体性だということです。人間の問題の具体性において、弾圧の中に終始、親鸞聖人の教学の営みというものが一貫してきた。こういうことだと、私は押さえていきたいのです。

 その時、やっぱり非常に大きい問題となりますのは、人間の問題であると押さえた時、それが何故弾圧という、ある意味では、社会からも、あるいは当時の仏教界からも、あらゆる側面から拒否され、排除されるような形でしか、それがなされなかったのか。仏教が、徹頭徹尾人間を明らかにするものであるとするならば、人間を明らかにする仏教の中において、何故、人間の問題であるということをはっきりさせる時に、そのはっきりさせることが、弾圧という現実状況の中で終始することとなるのか、ということがやはり大きな問題になると思います。

 そのあたりのところが私の持っている一つの見落しについての確かめであると同時に、それを言葉にした時に、いろいろ私自身が危惧することについての弁明になるのかもわかりませんけれども、あれこれと申してみたわけであります。しかしこのことは、あくまでも私の危慎であるのかもわかりません。皆様方の方ではすでに解決ずみであるかもわかりません。けれども、私自身、今回は勝手に話をさせていただけるということでありますので、こういうことも申させていただくわけであります。

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Last modified : 2014/10/30 22:12 by 第12組・澤田見