6. 無限定な学習

 そこで一つだけ、根っこのところで押さえておこうと思って申し上げたことは、わかっていること、あるいはわかっていると思っていたこと、そのことを報告をしていくということではない。私が今わかりたいと願っている、その願いにどこまで自分自身が忠実にお話をしていけるかということだけを一つ念頭に置いておきたいというふうに思っております。

 そういう意味では方向の定まらない、そして、内容の限定のないお話でありますから、お聞きくださる皆様方の方にも、私に与えられた自由を、そのままお返しをしておこうと思います。皆様方の中での約束事はどうなっているのか聞いておりませんからわかりません。欠席するとこうこうであるといった罰則があるのかどうか、その辺はわかりませんけれども、私の気持ちとしてはもうイヤになったら、やめていただいて結構だと思います。何故かと言えば、イヤになるような話しかしておらんのですから、それを無理してまでもお聞きになるというのは、それはやっぱり健康的でないと思います。また、途中から、聞きたくなったらお聞きいただければ結構だと思います。そういう意味では私の方が頂戴した自由を、皆様方の方へお返ししたいと、このことはまず最初に申し上げておきたいと思います。

 もう一つ申し上げますと、だから私の話しますことが、正確か不正確かということになりますと、全くわからないんです。正しいか正しくないか、それが定説か定説でないかというような、そういう決め方をしていかなくてはならないというようなことになりますと、文字通り基準がないわけですから困るのです。あえて基準と申しますならば、私がわかりたいというのが基準です。私がわかりたいということの中で、今私がわかりつつあるということについてお話をするわけであります。ですから、それが間違いだと言われれば、やっぱり間違いであるかもわかりません。なるほどそういうもんかなとうなずいてくだされば、そういうもんだという共感がそこに生まれるのかもわかりません。そういう意味では、最初に申しておきますけれども、聞いてくださいます皆様方の方で、私の話をお聞きとりいただいて、その正・不正を論議することは、ご自由になさってください。しかし私の方には基準がないということだけ申し上げておきたいと思います。

 それから、共鳴できるか共鳴できないかということも、私は全然問題にしておりません。そういう物の考え方で『教行信証』を読んでいいのかといわれれば、それはそういうもんだと思います。しかし、どうでありましょうとも今自分が、自分の気持ちの中で、今わかりたいという表現をとりましたけれども、そういう一つの願いと申しますか、少なくともそういう願いを持って、拝読をしてきたつもりでおります。『教行信証』を、あらためてこういう機会に勉強させていただくことは有難いことであります。

7. 見落してきた要点

 今日、玄関を入りましたところに、「教行信証総説」と書いてありました。あれも、どなたかがおつけになった題だろうと思います。これが総説なのか何なのかわかりませんけれども、今日お話をしようと思ってきましたことは、こんなことであるということだけ初めに申しておきます。

 私自身が、これまで『教行信証』だけではありませんけれども、親鸞聖人の教学の営みと申しますか、教えを本当に明らかにしていこうとする、そういう思想の営みというものについて思うのですが、親鸞聖人の教えを学んできた私なら私個人、あるいはもう少し口はばったい物の言い方をお許しいただくとするならば、これまでの真宗の教学と呼ばれている学び全体の中に、非常に大事なものを見落してきたんじゃないかという気がしてならないわけです。そしてその大事なものを見落してきたという、その大事な点ということを口にしたとたんに、そのことがひょっとすると、これまでそれを見落してきた歴史の中で育てられてきた私達には、もう口にしたとたんに正当にそのことが、うなずかれていかないということになりはしないかという問題が一つあるように思うのです。ですからこの辺のところは、私達の持っているそれぞれの予定の観念で色付けをして、受けとめていかないで、できるだけ親鸞聖人の思想の根っこに事実としてあることということにして、確かめていきたいと思っております。

 しかし、それにしてもその一点を見忘れてきたのではないか、したがってそのことを見落した上で、親鸞聖人の教学の営みということに関わってきたのではないかという、見落し、見忘れてきたという表現で私が言うておりますことを、口にしてしまったとたんに、おそらくそれに関して動く意識が非常にやっかいになるのではないかという、そういう気がしてならないのです。でもやっぱり見落してきたんじゃないかという、しかもそれは決して、考えて見落してきたことがわかるとか、わからないとかということじゃなくて、事実としてあるものを見落してきたんじゃないかという感じなんです。正直申しまして本当に見落してきたことをなかなか口に出せないんです。随分と口ごもっておりますのは、本当に言葉にしたとたんに、そこらへんから随分、手順をふんでいかなくちゃならなくなるという気がしますので、口ごもっておるのです。

 けれども、思い切って言うてしまうと、親鸞聖人の思想と申しますか、親鸞聖人の宗教的な思索と申しますか、それは終始一貫、弾圧のもとで醸成されてきた思想だと、こうはっきり言い切っていいという点が、見落されてきたんじゃないかと、こういうふうに私は最近思っております。終始一貫、弾圧のもとで、仏教を明らかにしていこうとする思想の営み、ということがなされてきたのではないか、それが親鸞聖人の教学の営みの根っこにあることじゃないか、その点が見落されて来過ぎたのではないかという言い方を、私は一度思いきってしてしまおうと考えているわけです。

8. 認識の差異

 先程から私が申しておりますことが老婆心であるならば、何も問題にならないんですが、「弾圧のもとに」という一点が、おそらくかなりいろいろな関心を、お聞きくださる皆様の上に与えていくんじゃないかと思います、例えば、非常に素朴なものの言い方といいますか、単純なものの言い方をしますと、弾圧というような言葉についても思うのです。

 弾圧というような言葉それ自体が、世代の違いによって、弾圧という言葉に関わる認識というものが、基本的に違っていると言ってもいいような違いがあると思うんです。

 例えば、私なんか先の戦争の末期に青年期を生きた人間であります。そういう意味では、この八月という月は、随分といろいろなことを考えさせられる月であり、考えなくてはならない月であるわけです。終戦記念日を中心にしまして、この八月という月がどんな月なのかということは、随分大きな問題を私達がそこで確かめなくてはならないということがあります。そういうことを通しながら弾圧というような言葉一つ、私が念頭に置く時に、もうすでに私には弾圧という言葉が持っている具体的な現実というものが、私の心の中にいくつか出てくるわけです。

 ところが、おそらく、この前の方にお座りになっておいでになる若い方々が、弾圧という言葉を聞いた時には、私が弾圧という言葉に関わって、具体的に私が生きてきた現実の中で認識させられた、その認識とは随分違う認識を持っておいでになるだろうと思うのです。そして、その認識の違いということは、これからの話のなかでどのようなうなずきとなるのか、その辺がかなり困難なことになるのではないかと思います。しかし、問題をつきつめてみたいと思っておりますから、あんまり言葉のひびきについては考えないことにして話したいと思いますので、その辺の不十分さがありましたら、後から皆様の方で確認、訂正をしていただければ結構だと思います。

 例えば、現代という時代は、具体的に申しまして、天皇を呼び捨てにし、天皇を批判しても、そのことによって、必ずしも牢獄に入れられるということのない時代です。ところが私のように戦争の最末期に、軍隊にも行った人間にとりましては、その点だけ考えても大きな違いがあります。私が、軍隊に入れられていたころの状況をふっと念頭に浮かべてみましただけでも、前にお座りになっている皆様方が、さして、身の縮む思いを感じないで、口にしている言葉を、もし私があの当時口にしたならば、おそらく銃殺されただろうと思います。当時では銃殺されるような発言でも、それと同じ言葉が今日では手も後に回るということすらない。こういう現実としての違いということがあります。

 しかし、決してその内容について私は言うておるんじゃないのです。ただ弾圧という一つの言葉を通しての認識状況の違いというものがあるということです。

 そうなりますと、親鸞の仏教、仏教の真実を明らかにする教学の営みというものが、終始一貫、弾圧のもとに醸成されて来たと、こう私が一言申しました時に、最初になにか口ごもっておりましたところの意味は、大体おわかりいただけると思います。弾圧という言葉それ自体の認識状況というものが、随分違ってしまうわけです。

 私は、そのことに関しての評価を今言うているわけじゃないんです。いいとかわるいとかいう評価ではなくて、認識状況の違いがあるのではないか、したがって、その認識状況の違いは、ただ認識に関わる感覚の違いというだけではなくして、私が親鸞聖人の教学の根っこに見据えようとすることに関わっていく時に、その認識の違いが問題になるのではないかと思うのです。

9. 共通認識の設定

 私がこういうことを言うこと自体が、私の持っている弾圧という言葉に関わっての、経験を通しての認識の状況というものがあって、弾圧という言葉を私が使っているということも確かに前提としてないとはいえません。ただその時、特に私が親鸞聖人の教学の営みの根っこといいますか、バックボーンにずうっと一貫して事実としてあるのは、終始一貫、弾圧ということである。そして、その弾圧の中で醸成され続けた宗教思想が親鸞聖人の教学であると、こういうふうに言い切っていく時、弾圧という事柄に関わって、私も含めてのことですが、ここにお集まりの皆様は、いろいろな認識を持っておいでになる。その認識についての感覚も持っておられるに違いありません、けれども、そういうことを持ち込まないほうがいいのではないかと思うのです。親鸞聖人の教学の営みというものが終始一貫、弾圧のもとに醸成されたという、その時に、弾圧という事柄に関わる我われの今日的な一人ひとりの持っている認識と申しますか、あるいは感情と申しますか、感情を伴った認識ですが、そういうことにあまりに身を寄せないで、ある意味ではそれを突き離すような形で、一度「親鸞聖人の教学の営みというものの根っこに終始一貫している事柄というのは弾圧である」ということをきちっと押さえておく必要があるんじゃないだろうか、ということをまず申したいわけです。

 だから、たとえその認識ということの中に拒否反応をお持ちになろうが、あるいは、賛同なさろうが、拒否も賛同も両方とも一度、ある意味では棚上げにして、事実はそうだというふうに私は言い切っていきたいわけです。そういうふうな、最小限度の共通認識・最小限度の共通のものの考え方の場というものを、設定をしておきたい。こんなふうにまず思っております。

10. 人間の抽象化を切る

 なにぶんにも弾圧下の思想という言い方、言葉は、へたをいたしますと流行語になります。妙な流行語になる要素を多分に持っていると思うんです。だから、その点に関しての意識というものを、よほど自分のなかで切っていく戦いのようなもの、そんなものを持たない限り、どうしても自分の関心の中に位置づけられている弾圧という言葉、あるいは弾圧という出来事、そのことに私が、少なくとも少し気づきつつある親鸞聖人の思想の根底を貫く事柄が弾圧だということを、逆に自分の方へよせてしまうということになる。そうなった時に、そのあたりから問題が本質的にずれていくんじゃないかという気がします。

 生の表現をとって申しますと、いわゆる私がそういうことを申しますのは、一言で言いますと、弾圧のもとに親鸞聖人の思想が醸成されて来たという言い方は、違う表現をとって申しますと、親鸞聖人のものの考え方、したがって親鸞聖人が仏教の真実を明らかにしていこうとなさった、その底辺に一貫していることとして弾圧ということを位置づけるとすると、それは、人間を抽象化しないで見ていくことだというふうに私は言い切っていきたいんです。

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Last modified : 2014/10/30 22:12 by 第12組・澤田見